【安祥城レポ 1/10 】
安祥(あんしょう)城は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城です。
築城年代は不明ですが、一説によると永享十二年(1440)。
当時、この付近に志貴荘という荘園がありまして、その地頭・足利氏一族の和田遠江守親平が築いたという説があります。
そこでこの安祥城、何が有名かというと…
桶狭間合戦以前、今川氏、織田氏、松平氏が入り乱れて戦ったという凄まじい歴史を持つ点です。
● まずは松平氏 ●
安祥城の具体的な歴史が残るのは、松平氏が入城してから。
文明三年(1471)、松平三代・信光は、奇策をもって安祥城を攻略。
ココを拠点とし、分家を三河各地に次々に広げ、着々と三河に勢力を拡大して行きます。
そして7代・清康(徳川家康の祖父)の時代には、岡崎城も攻略。
その後は岡崎城を拠点とし、さらに勢力を拡大していきますが…
天文四年(1535)、守山崩れで清康が暗殺されると、松平氏は一気に衰退。
ココから安祥城争奪戦が始まります。
● 信長の兄、とっ捕まる ●
清康の死後、尾張の織田氏は積極的に三河へ侵攻。
松平氏は駿府の今川氏の力を借り、これに対抗。
こうして天文九年~十八年(1540~49)にかけて、織田氏、今川氏、松平氏が安祥城争奪戦を繰り広げます。
そして天文十八年(1549)。
この時、安祥城は織田氏が支配し、信長の兄・信広が城主でしたが、今川・松平連合軍がこれを攻略。
信広は捕まってしまいます。
↑ ちょうどこの時、田原城の戸田さんに売り飛ばされた松平竹千代が織田氏のもとにいました。
また今川氏のもとには、織田信広がいます。
ということで、ココで人質交換となり、松平竹千代は松平氏のもとに帰ってきます。
この竹千代が後の徳川家康なんですね。
その後、安祥城は今川氏の支配下となり、家臣・天野安芸守景貫井伊次郎直盛が入城します。
● まさかの廃城 ●
それからしばらく安祥城は駿河の今川氏が支配していました。
しかし永禄三年(1560)、桶狭間合戦で今川義元は討死。
すると松平元康(これも後の家康)が岡崎城で今川氏から独立します。
その後、松平氏は尾張の織田氏(信長)と同盟を結びます。
ということで、松平氏、織田氏はお互いに戦う理由がなくなり、
・織田氏は西へ (近畿方面)
・松平氏は東へ (遠江方面)
それぞれ領土を拡大して行くことになります。
これにより安祥城は廃城となりました。
しかし天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の時に使用されたそうな。
その後、江戸時代の寛政四年(1792)、安祥山大乗寺了雲院が建立され、現在では安城市歴史博物館が建ち、周辺の市街地にはかつての遺構が残されています。
※ 続きを読む → 安祥城へのアクセス (電車編)
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