【岐阜城レポ 13/30】
岐阜歴史公園内でまたもや銅像を発見!
一瞬、クラーク博士か?
と思いきや、この銅像、板垣退助(いたがきたいすけ)なんですね。
板垣退助とは、明治~大正時代に活躍した政治家で、自由党総理。
坂本龍馬と同じ土佐藩士。
もとは乾姓を名乗っており、自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていました。
全国を遊説中、岐阜で暴漢に襲われ命を落としてしまいますが、その時有名な、
『板垣死すとも自由は死せず』
という言葉を残します。
ホントは、『吾死スルトモ自由ハ死セン』
と、言ったそうですが亡くなった地が岐阜だったとは。
これも意外な発見でした。
↑ 銅像の横に【板垣退助君遭難地】という石碑が建っています。
この場所で亡くなったのでしょうか?
これもナゾ。
余談ですが、板垣退助のルーツを探ると、甲斐の武田氏家臣に行き当たるんですね。
家伝によると乾家の初代・乾加兵衛正信は、戦国時代に甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫なのだそう。
板垣信方は武田氏の重臣でしたが、村上義清との【上田原の戦い】で戦死してしまいます。
その息子・板垣信憲は信玄の不興を買い、甲斐長禅寺に押し込められ、後に殺害されてしまいます。
この時、板垣家は一時断絶してしまいますが、信玄が板垣信方の女婿に名跡を継がせて板垣家を再興させ子孫は遠江国周智郡乾村に籠居して、板垣姓から乾姓に改姓。
これが乾家の初代・乾加兵衛正信です。
その後、山内一豊が掛川に封ぜられた際に仕え、そのまま土佐にやって来たのだとか。
そして幕末まで乾姓でしたが、再び板垣姓に。
この辺がヤヤコシイですが、歴史は意外な繋がりがあるものです。
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