【犬山城レポ 1/18】
犬山城は『白帝城』の別名を持ち、尾張と美濃の境である木曽川南端の丘陵地に建つ平山城です。
犬山城はイキナリこの地に築かれたのではありません。
もともとはこの丘陵地のふもとに、尾張守護・斯波氏の家臣・織田広近が築いた『木之下城』がありました。
しかし戦国乱世の中、斯波氏の勢力も弱まり、織田氏が尾張一円を支配する様になります。
天文六年(1537)、織田信康の代に、木之下城を現在の丘陵地に移すカタチで、犬山城が築かれました。
天文十六年(1547)、織田信康は美濃稲葉山城の斉藤道三を攻めますが敗れて討死。
跡を信清が継ぎますが、織田信長に犬山城を追われ、甲斐へ逃げ延びます。
その後、元亀元年(1570)。池田恒興が犬山城主となり、天正九年(1581)、信長の末子・信房が城主となりますが、本能寺の変で信長とともに討死してしまいます。
そして織田信雄の家臣・中川勘右衛門定成が城主となります。
そして本能寺の変後の天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦が起こります。
この時、伊勢へ出陣中の中川定成の留守をついて、池田恒興が犬山城を奪取。
秀吉へと味方しますが、この報せを聞いて、家康・信雄連合軍は小牧山に陣取ります。
その後、合戦は膠着化し、恒興は岡崎城を目指す途中で家康と合戦になり、討死してしまいます。
合戦後は織田信雄の領地となりますが、その信雄も追放。
次に豊臣秀次が領しますが、文禄四年(1595)に高野山で自刃。
犬山城は、美濃金山城主・石川光吉に与えられます。
そして慶長五年(1600)、関ケ原合戦の時、石川光吉は西軍についてしまい領地は没収。
翌年の慶長六年(1601)、清須城主となった松平忠吉の家老・小笠原吉次が犬山城へ入城。
慶長十二年(1607)、松平忠吉が亡くなったので、家康の九男・義直が名古屋城主となりますが、この時に平岩親吉が犬山城主となりました。
しかし親吉には子がなく、没後六年間、犬山城主は不在となります。
そして元和四年(1618)、義直のお守り役となった成瀬正成が、3万5千石で犬山城主となり、以後は明治に至るまで世襲したのです。
その後の犬山城は、明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門などほとんどが取り壊されました。
明治二十四年(1891)、濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れたため、明治二十八年(1895)に城の修復を条件として、旧犬山藩主・成瀬正肥に無償で譲渡されました。
その後、犬山城は成瀬氏の個人所有の城として存続しましたが、平成16年(2004)年4月に、財団法人犬山白帝文庫に移管され、現在に至ります。
最後の個人所有だった城として名高い犬山城ですが、現在でも国宝として多くのファンが毎年訪れています。
※ 続きを読む → 犬山城へのアクセス(クルマ編)
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