あの戦国の現場へ行こう!-源義朝公廟所はコチラ



【野間大坊レポ 4/12】



野間大坊で忘れてはならないのがココ!



源義朝のお墓です。(廟所)



この人は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の父。



平治の乱後、関東に行く途中、この野間の地にて亡くなりました。






あの戦国の現場へ行こう!-源義朝廟所


↑源義朝のお墓の周辺に、木の束がたくさんあります。



これは木刀の形をちた札。



なぜこんなものがお墓にたくさんあるのかというと…



後の記事にて詳しく記載しますが、源義朝は野間荘の長田(おさだ)忠致・景至親子を頼ります。



しかしこの長田さん、義朝を裏切り、敵方の平家に通じようと考えます ( ̄▽+ ̄*)








そして正月。



初湯に招かれた義朝は、入浴中に長田さんたちにの手によって忙殺されてしまいます。



その時、義朝は入浴中だったので、武器を持たず丸腰。



亡くなる間際に、『せめて私に木刀の1本でもあれば…』と叫んで亡くなりました。



このことから、義朝のお墓には、木刀のカタチをした札が参拝者によって、収められる様になりました。






あの戦国の現場へ行こう!-鎌田政家夫妻の墓


また同じ敷地内にある鎌田政家の墓。



(名前は、正家、正清 とも)



鎌田政家は、源義家に信頼された家臣で、義朝を支えた人です。



義朝が忙殺された時に、同じく長田さん親子の手によって亡くなりました。






あの戦国の現場へ行こう!-池ノ禅尼之墓


↑ そして池ノ禅尼の墓も敷地内にあります。



この人は、平清盛の父・忠盛の正室で、清盛の継母にあたる人です。



平治の乱後、源頼朝は平家に捉えられてしまいますが、頼朝の助命嘆願をして、頼朝の命を

助けた事で有名です。



実際には、頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や熱田宮司家

(頼朝の母方の親族)の働きかけによって、助命されたとも。



なぜ野間にお墓があるのかは不明ですが、この女性も源平時代の有名な方ですね。






あの戦国の現場へ行こう!-織田信孝墓


↑ そして時代は違いますが、織田信長の三男・信孝の墓もあります。



信孝は本能寺の変後、一時は織田家の後継者として推挙された人物です。



しかし同じ兄弟・信雄に破れ、野間へ逃れ自害しました。






あの戦国の現場へ行こう!-平康頼墓01


あの戦国の現場へ行こう!-平康頼墓02



また義朝の廟所から離れた場所にある平康頼の墓。



この人は、野間大坊を整備したということで名前が残る人です。



平康頼が尾張守として任地にあった時。



野間庄にある源義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていました。



これを憂いた康頼は、義朝のために小堂を建て、田を30町寄進し、僧侶6名を置いて

供養に当たらせたそうです。



後に義朝の子・源頼朝はこの功績に応え、平康頼を阿波国の保司という役職に任じた

ということです。



ただ、これには別の説もあるんです。



平康頼自身、野間で亡くなっておらず、別人の墓を平康頼の墓としたとか。



これも歴史のナゾですね。



これらのお墓は野間大坊の敷地内にありますので、一般人も参拝できます。




【野間大坊】の地図




※ 続きを読む → 源義朝が亡くなった湯殿跡



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