【吉田城レポ その11】
吉田城は現在城址公園として整備されていますが、お城だった頃の遺構はディープに残っています。
では、どんな遺構があるのか?
順番に見ていきましょう (=⌒▽⌒=)
まずは南側の道路。
実はコレ、かつての堀を埋めて作られた道路なんです。
では、道路になる前の話。
この道路の部分を掘って、掘にしますよね。
そこで、余った土はといと…
道路の北側にある土塁にしてしまったのです。
まず、
① 堀を掘る
② 余った土を土塁として積み上げる
~ 時代は流れ、明治時代に ~
③ でも堀も別の所から土を持ってきて埋めて道路にしてしまった
ということですね。
なんでこんな事をするのか?
まず、堀が掘られると、敵は堀に落ちてしまいます。
次に堀から這い上がろうとしても土塁があるので、余計によじ登らなければなりません。
そうこうしているうちに、土塁の上からタタキ落とされるか、狙撃されますね。
これも基本的な防御施設です。
↑ 城内の冠木門跡。
城内にも門がありました。
今では石碑のみですが、こういった石碑は当時が偲べて助かります。
↑ 鉄櫓下の腰曲輪。
曲輪とは、兵を駐屯させておくスペースの事。
帯みたいに細い、また帯みたいに他の曲輪や櫓に付属するから、帯曲輪ともいいます。
ぱっと見、通路に見えますが、これも曲輪なんですね。
↑千貫櫓跡。
この名前には面白いエピソードが残っています。
まず、同じ名前の櫓が、大坂城にもあります。
大手門の向かって左手にある櫓です。
吉田城も本丸正門を入った左に千貫櫓があり、これは大坂城と同じ位置なんですね。
大坂城があった場所には、もともと石山本願寺がありました。
織田信長の軍勢が攻めましたが、なかなか攻め落とせませんでした。
なぜなら、城門の脇にあったので、城門を攻めていると、横から弓矢、鉄砲で攻撃されたのです。
そこで、『この櫓を落とした者には、褒美として千貫与える』と懸賞を出したほどの櫓でした。
後に大坂城になって、大手門脇に櫓を建て、千貫櫓と命名しました。
吉田城の千貫櫓も位置関係がまったく同じなので、このエピソードにちなみ、同じ名が
付けられたのでしょう。
↑ 吉田城には、8~9基の櫓がありました。
数字がハッキリしないのは、城内にあった太鼓櫓を、櫓の数に入れるか入れないかでモメて
いるからです。
入れれば9基。
入れなければ8基、ということです。
まあ、このへんの議論は、おエライさんに任せましょう。
結論が出たら、私のところに一報入れるように (  ̄っ ̄)
↑ 城内のいたるところに見られる土塁。
土の壁ですね。
シンプルですが、これも立派な防御施設です。
↑ 土塁あるところに堀あり。
城内にもたくさんの堀が残っています。
昔はもっと深かったのでしょうね。
年月を経て、両脇からの土砂で埋まってしまうのでしょう。
それでも未だにこれだけ残っています。
↑ 二ノ丸御殿跡。
城主が住む御殿ですね。
今では静かな公園になっています。
↑ そして本丸。
ここにもかつて御殿がありました。
今では広場になってます。
こんなカンジで、吉田城内は遺構がディープに残っています。
まともに散策すると、半日はゆうにかかってしまう。
場内で半日。
城外の東海道関連で半日。
ということで、1日あれば、かなりディープに回れる。
それが吉田城の魅力でもありますね。
※ 次の記事を読む → 吉田城の三之丸にある建物はナニ?