【吉田城レポ その5】
かつての吉田城は、東海道を取り込んだ城でした。
この東海道というのは、江戸時代に整備された街道です。
江戸~京都と結ぶ、いわば当時の国道です。
もともとこの東海道の原形ともいうべき街道があり、それを家康が再整備したという説もあります。
さて、この東海道、非常に重要な道だったんです。
なぜなら、西国から江戸に軍が進む場合、軍事物資の運搬とかもあり、大きな道を
通る必要があります。
そこでこの東海道をはじめ、主要な街道を通る必要があったのです。
なので東海道を押さえるという意味で、主要の部分に城が建っているんですね。
岡崎城もそうです。
田中吉政が、【岡崎城二十七曲り】という独自のクネクネ工法で、東海道を曲げまくりました。
なので東海道を通りたければ、
『城を落とさないと進めない』
という仕掛けになっていました。
そして戦はなくとも、平和な時は、城下町が形成されていましたので、経済も回ります。
そんな東海道ですが、モチロン吉田城下にも取り込んであり、今でもその名残を見ることができます。
↑ まずは東惣門 (ひがしそうもん)
吉田城下の東の玄関口ですね。
看板にもあるように、午前6時~午後10時までしか開いておらず、深夜・早朝は門は閉じています。
なので時間外は、一般の通行が禁じられていたのです。
今では東惣門のミニチュアで再現されています。
↑ この東惣門があった場所は、現在の国道1号線の【東八町】の交差点です。
現在でも、静岡県に伸びる国道1号線、
長篠(新城市)に伸びる県道31号線、
東海道の裏街道の名残をもつ国道362号線、
といった主要な道路につながっています。
なので現在でも交通の要所なんですね。
これと反対の西側の玄関口【西惣門】というのも有りました。
↑ そしてかつての城下町の名残は、そのまま町名にもなっています。
写真は鍛冶町。
現在では鍛冶屋さんはなく、民家ばかりですが、当時は鍛冶屋が立ち並んでいたのでしょうか。
↑ 上伝馬町、呉服町なんて地名も残っています。
今ではその面影はありませんが、こうして地名だけでも残っていると散策しがいがありますね。
豊橋駅から歩いて吉田城へ行く途中には、このような地名がたくさん残っています。
↑ こちらは吉田宿本陣跡。
本陣とは、参勤交代で各地の大名が江戸へ行く途中に止まった宿です。
一般人が気軽に泊まれる宿ではなく、大名専門の宿。
現在は石碑でその場所を示しています。
↑ 曲尺手(かねんて)門跡。
城下内にも門がありました。
そのひとつがこの曲尺手門跡です。
ココも石碑だけですが、当時を偲ぶことができますね。
というふうに、城下町散策だけでも、いろんな名残を発見できます。
まともに散策していたら、これだけで半日かかるくらいディープなネタです。
でもこれも、城めぐりの楽しみのひとつですよね。
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