【吉田城レポ その1】
吉田城はもともと今橋城といいました。
築城は永正二年(1505)、現在の豊川市北部に勢力を持っていた一色城主・牧野古白によるものです。
当時牧野氏は、駿河の今川氏の傘下でした。
しかし同じ東三河に、今川氏と仲が悪い戸田氏がいたんです。
戸田さんは、駿河(現在の静岡県)と、東三河の国境付近に、仁連木城(にれんぎじょう)を築き、今川氏と牧野氏の勢力を分断しようとしました。
これに対し、今川氏からの命で牧野氏に築かせたのが吉田城なんです。
吉田城が築城されると、今川氏が頻繁に三河へとやってきます。
吉田城を中継基地に、三河の豪族にニラミを利かせていたんですね。
そして西三河に進出してきていた松平清康と今川氏は戦います。
この清康は徳川家康の祖父ですね。
そしてこの吉田城を舞台に、今川、松平、戸田の戦いが繰り広げられる様になります。
とにかく争いが絶えなかった吉田城。
主な戦いをまとめると次の通り。 ↓
★ 牧野古白討死後、戸田さんと牧野氏を抑え天文十五年(1546)今川義元の勢力化に。
★ 永禄三年(1560)桶狭間合戦後、松平元康(徳川家康)が、吉田城を攻め酒井忠次が城代へ。
★ 元亀二年(1571)、武田信玄に攻められるも、酒井忠次がこれを退けます。
★ 天正三年(1575)長篠・設楽原合戦時にも、勝頼に攻められる。酒井さんが撃退。
これ以後、吉田城を取り巻く戦は無くなります。
天正三年(1575)、家康が関東に追いやられると、岐阜城がら池田輝政が入城します。
↑ この時、輝政は城下を一変させるほどの大改修を行います。
東海道を整備し、街を碁盤の目の様に整えます。
ちなみにこの城域の外側に【吉田大橋】に通じる道があります。
そこが江の娘・千姫で有名な、
『吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖で』
と歌われた道です。
さて、モチロン城内も大きく変わり、現在でも輝政時代の石垣が残っています。
関ヶ原合戦後に輝政は姫路に移りましたが、その後は親藩の大名家が多く入城します。
竹谷松平氏、深溝松平氏、水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏、本荘松平氏、
などなど。
そして最後は大河内松平氏が七代続き、明治に至ります。
歴代藩主は三~八万石前後の石高で、城域を確保するくらいが精一杯でした。
なので吉田城は天守閣の建立を見ないまま、明治になってしまいます。
豊川に面した鉄櫓(くろがねやぐら)が、天守閣の代わりでもあったといいます。
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