【徳川家康ガイドブック・名古屋城を攻略せよ!その40】
お城と非常に相性が良い鯱(シャチ)。
名古屋城にも金シャチがあります。
ではなぜ、シャチホコがお城にあるのかというと?
もともとシャチホコは水を意味し、火事を防ぐまじないとして室町時代くらいから飾られるように
なりました。
そのうちに城主の勢いを示すシンボルとなり、安土城や大坂城でも飾られるようになります。
建物の一番てっぺんにあるものですから、一番目立ちますね。
そんなこんなで名古屋城が出来上がった時、金シャチも作られました。
名古屋城の金シャチは、天下人となった家康の権力・財力を象徴するかのように、豪華なものに!
記録によれば、純度80%、小判17975枚に相当するものだったそうです。
この数、すごいですよね?
また、別の記録には、慶長大判1940枚分というものも。
純金にして215.3kgの金が使用されたといわれています。
今の貨幣価値なら、いくらくらいなんでしょうか?
なのでこの金シャチは目立ちました。
純度も高いばかりか、金の厚みもあり、光輝も強い金シャチです。
当時、名古屋の南を通る東海道、そして七里の渡、西方約一里先にある佐屋街道、美濃路を
歩く人達にも、この金シャチが見えたそうです。
その評判はたちまち全国へと広がっていきました。
しかしこの金シャチ、いつまでも輝いているワケではありませんでした。
江戸時代も中期になると、尾張藩の財政も圧迫、そのとき目を付けられたのが
金シャチだったのです。
なんと、ウロコをはがし、鋳直し一部を藩の財政にあてました(ホント)
しかも一度ではなく、3回やったそうで、そのたびに輝きも少しずつ曇っていきました。
しかしやはり金!
盗賊に狙われないワケがないですね。
名古屋城の金シャチも江戸時代に、『柿木金助』 (かきのき きんすけ)という盗賊が
大凧に乗り、ウロコを盗んだという話が残ります。
真偽のほどはワカリマセンが、歌舞伎や講談のネタとして、江戸時代には人気だったとか。
しかし明治初年に金シャチが地上に下ろされた時、ホントにウロコの盗難事件が
起きてしまいます。
また昭和十二年一月にも盗まれます。
この時は、名古屋城の実測図を作るために天守へハシゴがかけてあったのですが、
この足場を利用して金シャチのウロコ58枚が剥ぎ取られました。
犯人は捕らえられましたがが、その8年後、空襲で焼けてしまいました (ノ_-。)
じつは金シャチの話は続きがありまして、空襲で焼失した金鯱の残骸は、戦後に
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されました。
そしてのち大蔵省に移り、昭和四十二年(1967)に名古屋市に返還されました。
その後、名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して
保存しているとの事です。
※続きを読む → 名古屋人にとって金シャチとは?