あの戦国の現場へ行こう!-妙法寺


【近江路・歴女ブロガー旅紀行 その40




黒壁スクエアを散策していると、妙法寺というお寺に辿り着きます。



ココは秀吉の息子・秀勝の墓所です。






あの戦国の現場へ行こう!-豊臣秀勝墓



『秀吉の息子って、淀殿が産んだ鶴松と秀頼だけじゃないの?』



そう思われる方もいると思いますが、秀吉には『秀勝』という息子だけでも(養子含む)三人いました。




1 秀勝 (石松丸)



2 秀勝 (織田信長四男)



3 秀勝 (姉の子、つまり甥)



このお墓は、1の秀勝 (石松丸)の墓。




秀吉が長浜城主時代に、側室・南殿とのあいだにもうけた子で、幼名は石松丸。



しかし6歳で亡くなってしまいます。



この妙法寺が菩提寺というワケです。





あの戦国の現場へ行こう!-秀勝看板

↑ 秀勝(石松丸)の存在を疑問視する学者もいますが、かつて妙法寺には秀勝といわれる

童子画が残されていました。(現在は火災で焼失)



そして発掘調査で、安土桃山時代の大名クラスの墳墓が出てきており、これが秀勝の墓という事で、

長浜市の指定文化財になっています。






あの戦国の現場へ行こう!-豊臣秀勝


↑ これが案内板にある肖像画。



もし、そのまま生きていたなら、秀吉と共にもっと違った形で、歴史に名前を残していたでしょうね。



豊臣政権も長く続いたカモ (・_・;)



ちなみに待望の息子・『秀勝』を亡くした秀吉は、よほどこの『秀勝』という名前に固執していたのか、

その後の養子、(織田信長四男、そして姉の子つまり甥)達にも『秀勝』と名付けます。



しかし皆、若くして亡くなっているんですね。



なのでさすがにイヤになったのか、最後の息子には『秀頼』と名付けています。



この肖像画付き墓地は、黒壁スクエアの中にありますので、ココのチェックも忘れずに!




【妙法寺】の地図




今日も『ポチッ』と、応援お願いします。


にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村