では野田城の外側から見てみましょう。
上の絵は野田城の縄張図(なわばりず)。
縄張とは、お城全体の規模、つまり【城域】ですね。
昔はお城の範囲を決めるとき、縄を張って、『ココからココまで』みたいにやってたそうで、この名前が付きました。
ところで縄張り図中に、(本丸)、(二の丸)、(三の丸)という広場がありますが、これを曲輪(くるわ)といい、曲輪の配置によって、縄張りのタイプ、種類があるのです。
※郭とも書く
ちなみに野田城の縄張のタイプは【連郭式】(れんかくしき)
本丸が一番奥にあり、その前面一列に他の曲輪が配置されています。
なので、三の丸 → 二の丸 → 本丸 という風に攻略しないと落城が難しい仕組みになっています。
『だったら本丸の背後から直接本丸を落とせばいいのでは?』
と考えそうですが、連郭式の場合、本丸の背後は
・急峻な崖(断崖絶壁)
・大きな川
・じつは本丸の背後を守る予備の曲輪があったりする
などの工夫がなされ、背後から攻めるのが難しい仕組みになっているのです。
そして野田城は、両脇を川で固めた縄張でした。
なので側面からの攻めは鈍く、身動きが取りにくいのでやはり不利なんですね。
数百年前なので川筋は変わっているかもしれませんが、水の道があった事は現在と変わっていないようです。
↑あと縄張図にはありませんが、野田城の軍事調練場があった場所。
現在では商業地区・住宅地になっています。
さらには、本丸の背後は急峻な崖になっていましたが、その後ろには、侍屋敷がありました。
ここは現在でも民家が点在しています。
ひょっとしたら子孫の方が未だに住んでいるのかもしれませんね。
※ 続きを読む → 野田城内の遺構は濃厚に残っている