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(①の続き)



ならば義元はどこで死んだのか?



この疑問が残ります。



そこで検証してみましょう。



信長公記を読んでみると、まず義元本隊は【おけはざまやま】にいました。



 あの戦国の現場へ行こう!-桶狭間史跡散策会06


この時、信長軍が山際まで攻め寄せた時、【北西】のほうから雨が降って、敵の顔に降りつけたとあります。



味方には【後方】から降りかかった、ともあります。



つまり、



信長は桶狭間山から見て、【北西側】から攻め寄せた事が分かるんですね。





信長軍の突然の急襲に驚いた義元本隊。



最初は逃げています。



そこで思うのですが、あなたならどちらに逃げますか?



ちなみに逃げ込むとしたら、体制を立て直すことができる【城】でしょう。



追いかけてきた敵をシャットダウンできますから。



近場には有力な城が3つありました。



① 家臣・岡部元信が籠もる鳴海城


② 一門衆・松平元康が籠もる大高城


③ 昨日宿泊した沓掛城





 あの戦国の現場へ行こう!-ふたつのおけはざま2


こうして書くと、頼りになる岡部の鳴海城や、元康の大高城に逃げ込むと安心♪



と思ってしまいがちですが…



しかしこの2城は、なんと尾張領内にある城。



つまり敵方のフトコロにある城なんですね。



袋のネズミになりにいくようなものです。



なので義元本隊は



①東で


②自分の勢力下の三河にあり


③自分も昨日宿泊した



沓掛城を目指したと思います。




これについては信長公記に裏づけもあり、信長が義元本陣を攻めようとする時、



【旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。】


(「義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ」と信長の下知。未の刻、東へ向かって攻めかかる。)



という記述があります。








東へ向かって攻めているという事は、やはり北西、または西のほうから攻めているということ。



義元はある程度逃げて、引き返し戦ったということは…



【桶狭間山から見て、東で討たれている。】



という事になります。



この【おけはざま山】とされる場所は、緑区、豊明市の境界線近くにあり、すぐ東は豊明市なんですね。



なので信長公記の記述からいくと、



義元が陣を敷いていた場所と討死した場所は違う。



陣を敷いていたのは【緑区】



討たれたのは【豊明市】



という事になるんですね。



もし、緑区の現在史跡公園で討死しているとするならば、



義元は、おけはざま山より【西】に逃げている事になります。






モチロン、織田信長研究の第一級資料とされる信長公記でも、この世の真実ではないと思います。



あと、著者である太田牛一も、桶狭間合戦時、方位磁石とにらめっこして方位を割り出したワケではなく、



『アレだと東な感じ』的なニュアンスもあったのではないでしょうか?



しかしだからといって、豊明はウソで、緑区が100%の真実マチガイナシ!



というワケでもない。



この、【義元がどちらで討たれたか?】というのは、今後も研究が必要だと思います。