消灯は午後九時。

それまでは房の中で――という条件は当然あるが自由に過ごすことが出来る。

個人購入で一定の基準を満たす内容の本も読める。

だが個人の荷を置く場所は幅が九十センチほどの棚一段と、

畳一畳分のスペースでしかない。そこは布団を敷いて自分が寝るための空間なのだ。

自ずと荷の量は限られる。

 他の刑務所には無施錠ではあるが個室に入れられる「快適」なもの(社会復帰促進センターなど)も存在しているが、約十畳に六人の入る淳也と細田の居る房はどちらかと言えばごく普通のものだった。

 

 他の四人のうち二人はページの角もすり切れた文庫本を読んでいる。

残る二人は自分の畳の上で横になり、誰かから届けられたらしい手紙を見ている。

 その横で淳也と細田はずっとお互いの話をしていた。

とは言っても話していたのは殆んど淳也の方で、

その内容も自分が新宿でどれほど馬鹿をやっていたかの半ば自慢話に終始していた。

 対して細田は自分のこととなると口が重くなり、

最後は「まあ色々あってさ…」で話を切り上げていた。

 だが話すうちに細田の上品さや博識さに単純な尊敬を感じたのか、

いつの間にか淳也は細田に「さん」を付けて呼んでいた。

 

「そっか…細田さんはでかい会社で偉かったんだな…。

さぞや給料も良かったんだろ?

俺なんか給料ってもらったこと無くってさ、時々兄貴から『これで飯食え』とか言ってもらう二、三枚の万札が給料っちゃ給料だったのかな…。

あとは女がさ…でも俺ヒモとかじゃないから!」

 

「誰もそうは思っちゃいないよ…」

 

 細田は目を細めて笑った。

 

「うん…。あいつも働いててさ…悪いとは思うんだけど、

俺こんなだろ?なかなかまともには…」

 

 「でもこうなるにあたって金は置いてきたわけだし、

彼女にも気持ちは伝わってると思うよ…」

 

「そうかな…へへ…そうだといいけどさ…」

 

「そうさ、だから早くこんなとこ出なくちゃ。だろ?だって子供も生まれるんだし…」

 

「そうなんだよなぁ…子供…生まれるんだよな…俺みたいなのが親父で可哀そうだけど…」

 

 細田は首を振った。

 

「その子の事が大好きで守りたいと思ったらそのお父さんが最高のお父さんだよ。

子供にとってはね。だから早く出よう。私も頑張らないとだけど…」

 

 淳也は頭を掻いて照れながら細田に尋ねた。

 

「で、細田さんは何年喰ってんの?刑期…」

 

 細田はニコリと笑い、指を三本立てて見せた。

 

「三年?へえそうなんだ…。で、ずっとここなのかい?だったら仮釈付くんじゃ…?」

 

「うん、そうだね。そうなんだけどどうなのかな…。

仮釈って有期刑なら刑期の三分の一経過後だよね?

もらえてもさ。私は入って間もないから…」

 

「そっかぁ…。だけどさ、俺がこんなの言うの変だけど、

今日新入り検査の講義を終えたばっかで雑居房に入れられて作業も経験したけど、

細田さん刑務官から名前で呼ばれてたろ?

あ、すげえって思ったよ、俺。

だって組の先輩に聞いてたんだ。

ムショで名前で呼ばれるのは優等な模範囚だけだって。

そうなれば仮釈も近いんだってさ…。だからすぐだよきっと!」

 

 屈託の無い顔でそう笑う淳也を見て細田も笑った。

 

「淳也君はどうなの?何年なんだい?」

 

「俺は二年四か月。傷害だし多分きっちり入ってることになるのかな…。先は長ぇや…」

 

「どうかな?私は何人かとここで話したけど、

傷害罪だろうと真面目にやっていれば仮釈はもらえるようだしね…」

 

「そうか…うん、だといいなあ…」

 

「にしてもその官製の下着だよ。それじゃあ寒すぎだって。

私が買って置いてある分があるからそれでよければ使うかい?

好みじゃないかもだけど…」

 

「いや!ぜひ貰います!確かに支給されたこの下着異常な薄さなのなー…。

こんなのどこで作ってんだって!だから、貰えるんだったらもう喜んで!」

 

 そう言って大袈裟に土下座の真似をする淳也が顔を上げる。

細田と目を合わせ、笑いあった。

 

 初犯雑居房にトラブルは少ない。

勢い刑務官の仕事も楽なものになる。楽をさせれば機嫌がよくなるのが人間だ。

好循環が生まれる。

 

 七時には点呼を取り、麦飯とみそ汁につくだ煮や漬物が付いただけの、

しかも酷く味の薄い朝食をとる。

食事時間は十分ちょうど。終えると作業場へ軍隊の行進宜しく手を振って歩かされる。

 八時から昼まで割り当てられた作業をこなす。冷暖房の無い獄舎とは異なり、

作業場はそれなりに冷暖房が入っているので作業を嫌がる受刑者はほとんどいない。

昼を終えればまた作業だ。その間に運動の時間も有る。

だが残業は皆無なので実労働八時間の拘束でその日の仕事は終わる。

 「報奨金」と呼ばれる時給も貰えるが、その額は刑務所など関係のない一般から見ると「え?」と聞き直したくなる額だ。

熟練した者でも五十円に届かない。刑務所に入りたてともなれば十円にもならないのだ。

社会の法を犯した者、被害を与えた者が税で寝食自体保証される。

その上社会復帰の為の訓練作業まで与えられているうえに、そこに当たり前な賃金が付くとなれば、逆に社会の反感を買う事にもなりかねない。

 それでも、作業を終えて房に戻るとまた九時までは自由時間。

それを延々と繰り返す。刑期を終えるその日まで何変わること無く延々と。

 短気な面のある淳也なので時折他の受刑者と諍いになりそうなこともあったが、

その度細田が間に入って淳也を宥めた。

 

「子供が生まれるんだろ!早く出よう…。な?」そう言って。

 

 そんな日々が半年ほど続いたある日。

淳也と話している最中にフッと話を切った細田はテレビに視線を向けていた。

 

「どうかした?細田さん…」

 

「ん?いや…ちょっとね…」

 

 それはニュースだった。

画面には上品なスーツを着込んだ恰幅のいい中年が報道陣から揉みくちゃにされながらパトカーに乗り込むシーンが映し出されていた。

 

「なに?知り合いか何か?」

 

 そう尋ねる淳也に普段穏やかで明るい細田が表情を曇らせて頷いた。

 

「今の奴、何やったのさ?捕まったみたいだけど…」

 

 ニュースは他の事件を伝え始めた。

細田は俯いて自分の掌を見つめ、記憶を確かめ確かめするように話し始めた。

 

「私が一部上場の商社で経理担当をしていた事は話したよね?

そこでちょっと出来心から会社の金を…という話は…」

 

 淳也が頷いた。

 

「今のは、そのころの上司だよ。直属だった…。

まあ相性はあまりよくはなかったけどね…。

それが、今の話だと大きな金額を横領していたらしいね…」

 

「大きな…って?どのくらいだい?」

 

 細田は既に天気予報に変わっている画面を見やり、ポツンと言った。

 

「五億くらい…らしい…」

 

「ご…五億…?五億って…?五億円!まじ?」

 

 同房の受刑者たちが驚いて振り返った。

 

「マジかよ…すげえなそれ…。

それでその金どうしたんだろうな?まさか貯金てこたぁ無いだろ?

あるあるは女に貢いだとかギャンブルとか…。

ていうか使い切れんのかな?そんな金!いいよなー…俺だったら何に使うかなー…」

 

 真剣に腕組みして考えていた淳也と細田の視線が合った。

細田は真顔で黙り込んでいる。

 

「な…なんだよ細田さん、そんな怖い顔してさ…。俺、何か悪い事言ったのかな…?」

 

 細田は表情を崩さない。眉間に皺を寄せているが淳也を睨んでいたわけではなかった。

 

「これは…」

 

 細田がボソッと言った。言ってから辺りを見回し、声を落として続けた。

 

「これは絶対に誰にも秘密の話なんだけど…聴いてくれるかい?」

 

 淳也はぽかんと口を開けて小さく頷いて見せた。

 

「う、うん…なんだよそんな改まっちゃってさ…」

 

「今のニュース…実は私にも関係があるんだ…」

 

「…今の…え…?今のって…?五…」

 

「しっ…!」

 

 人差し指で自分の唇を封じるようにして見せ、細田は続けた。

 

「さっきの男は葛西と言うんだ。実際嫌なやつでね…。

事業部の全員から嫌われてるような俗物だった。

人を見下して考えることは独善、人のアイデアを掠め取っては上に良い顔する典型的な…」

 

「やな奴…」

 

 淳也に頷き、細田は続けた。

 

「特に女子には不人気でさ。なぜって…分かるだろう?」

 

 よくは分からないが恐らくはスケベか何かなのだろう――と淳也は理解して頷いた。

 

「まあそんなだから周りに味方なんかいないんだが、

悪いことにあの男は創業家とは遠いが姻戚関係にあったんだ。

わからない?つまり親戚さ。今頃創業家も大騒ぎだな…。

わが世の春と言う感じで傲岸不遜だったが…」

 

 そう言った時の細田の言葉には普段通り強い感情めいた物は無かった。

が、淳也は細田の表情が歪むのを確かに見た。

 

「で、さあ…、聞いてくれってのは?」

 

 淳也も細田を真似、サスペンス映画さながらの殊更な小声で尋ねた。

 

「うん、それなんだ。実は私は…」

 

 細田は言い淀んだ。言いにくいというよりも、

どう言うかを頭の中で選んでいるように淳也をチラチラと見ている。

 

「絶対に誰にも言っちゃだめだよ。この事を知っているのは私だけなんだ。

だけど淳也君は信用できるからね…」

 

 照れた笑いを浮かべて淳也はコクリと頷いて見せた。

 

「絶対に誰にも言わねえよ。誰だって秘密ってあるしさ…」

 

 細田はフウッと溜息を一つ吐くと人差し指を立て、床の染みを指した。

以前の受刑者の誰かが何かを零した跡だ。

 

「葛西の犯行は三年も前から行われていたんだ。

あいつは会社のカネを…帳簿には載らないいわゆる裏金を遊興費に使っていたわけじゃない。

理由は分からないんだけどね、それをそっくりそのまま隠したんだ。

ところが私は知っている。そう…五億のある場所を知っている…」

 

 細田が指している染みを見ていた淳也は初め、

細田の言葉にすぐには反応しなかった。俯いたまま、

 

「うんうん…」と頷いていた淳也がようやくハッと顔を上げた。

 

「え…な…いま…え?」

 

「知っている。カネの場所を。葛西は私がそれを知っているとは知らない。

絶対に。だが私は知っている…」

 

 細田は指先で染みを軽くトントンと叩いた。「ここに在る」と言わんばかりに。

その目には表情が無い。

事実だけを事務的に話して聞かせる――といった風に淳也には見えた。

淳也はごくりと唾を飲み、細田の光の無い目の奥を見つめていた。