私は何をしたいのだろう?
家族と伊豆山神社に行ってきました。
伊豆山神社には何度か来ているのですが
白山神社に行くのが今回の目的でした。
ここ最近、
神様を感じていたいという欲求、
そこに居るのが好きならば
居ていいんだよ、と
ゲシュタルトのももちゃんに
背中を押してもらい(そちらの記事☆)
ずっとそこに居たくて居ましたが
はて?そこに居てこの人生で何がしたい?
どうやって生きていきたい?に
変化してきて
それをずーーっと自分の中に見ていました。
私にとって何が幸せ?
その問は今までもしてきました。
お金がたくさんあること?
➡それだけじゃない、しっくり来ない。
子供がすくすく育っていくこと?
➡それもそうだけど、
何かに気付きたい私がいる
成功すること?
➡何か引っ掛かってるものに
気付かないと幸せ感がしっくり来ない
友達をたくさん作る?
➡外部への繋がりも大切だけど
自分の内側ともっと繋がりたい感覚がある
・・・・
自分の中に気付いてほしい
引っ掛かってるものは何なのか?
白山神社の神様の前で祈ってきました。
そうしたら、まぁ!
次の日はイライラすることばかりで
こんなんだった?私?
という姿をまざまざと見せられ
落ち込みました

結局、自分に手いっぱいで
人のことなんか思えないんだよね、という私。
ふと、以前は死にたいとよく思っていたな、
と思い出しました。
でもその死にたいは楽になりたいから
なんだよな、と考えていたところ、
楽になりたいって苦しみたくないこと。
苦しみたくないって、心穏やかになること。
心穏やかにって、幸せになること。
あぁ、人は誰でも
行き着くところは
幸せでいたいんだ!
苦しさから逃れたいばかりに
絶望したり
逃げたり
でもそれは絶望したり逃げたりすることで
"今の苦しみ"から目をそらしたい、
そうすることでとりあえず助かりたい、
➡避難場的な幸せ。
本当の望みではなく
とりあえずだから戻ってしまう
ならば、絶望する出来事に
捕らわれて未来が見えないのなら
過去の未完了を完了させ、クリアにし、
避難場的な幸せを求めるってことは
幸せになりたいって望む自分がいると認め
諦めた、絶望という世界に標的を
合わせるのではなく
その先の幸せを望むことは決まっている
もっともっとしあわせを感じる!、
に標的を合わせる。
そう思えたら、どうあがいても
人は幸せになる結果しか求めてないことに
降参しました。
その幸せをイメージし感じると
在るものすべてが
そこに向かっている、
木も草も月も太陽も
宇宙全体がそうなんだ、
ということを感じました。
それが"ただ在る"ことへの
信頼と幸せ。
私が欲しかった幸せは
この心。
世間の価値観でなく
存在そのものの在り方、
生きること生まれ来る世界が
なぜあるのか?という意図、
苦しむだけの世界ならなぜ神様は
それを知っていながら
この世を作ったの?という疑問。
それらのことが少しずつほどけ
理解していっています。
そう思えたら今での経験が
すべて繋がっていることに気づき、
そこに至るには、
どんな事が必要なのかを
体験してきたんだ、と
嬉しくなりました。
2017に入って瞑想チャレンジに参加し
瞑想を生活の中に取り入れて
気付いてみればすごい流れに
乗っている感じです。
心はすごいです!
いつもイメージの中で
すがるように佇んでいた神社の境内。
一方的な繋がりから、
どこに居ても神様と繋がっているんだ、
という感覚に変わりました。
自分の感覚を信じて選び、
そうしてちゃんと来れた。
自分の心を選ぶことの大切さ
自分を生きることは大切なんですね。
11日、はるひなたさんの
満月メディエーションライヴに
行ってきました。
その記事はまた次回に(^-^)/