人に近づくのが怖い、
居場所がない、
消えていなくなりたい
・・・
人を回避してしまう、
回避性パーソナリティ障害の
心の仕組みを研究中
静岡県東部(富士市)
リトリーブサイコセラピー
心理セラピスト
子間宮みか です


画像お借りしました。
自分軸を確立することと
他人には関心がない自己愛、
似ているようで
暖 と 冷
のような違いを感じます。
先週から読み続けている
岡田尊司さんの
「悲しみの子どもたち」
自己愛について書かれている章を
子供の立場と親の立場から読み、
ウンウン唸り耳が痛くなりながら
読んでます

今回も私の心の勉強にお付き合い
して頂けると嬉しいです

一部抜粋します。↓
************
自己愛世代は、成功を目指して競い合い
自己主張に励む競争社会が生み出した世代である。
自分の利益や都合の為には、
他人や外界を犠牲にし、
ないがしろにしても
無頓着な非共感的な一面と、
自分という存在の唯一無二性に
強く陶酔し、自分と同一視した存在には
過度に共感し、過剰な感情移入をする面を
併せ持っている。
冷酷と感傷が同居する世代なのである。
子供の能力を開発したり、
才能を伸ばすことには熱心でも、
子供が他人に迷惑をかけたり
無責任な振る舞いをしたりすることには
寛容だったり、黙認したりする。
自己愛世代は、自己愛の満足を追求しながら、そうすることに失敗する。
なぜなら自己愛的な満足の追求は
周囲の犠牲の上に成り立つ性質を持つからだ。
主役であることに価値を置く自己愛世代は
皮肉にも子供からさえ、
主役の座を奪ってしまうのである。
こうした状況が、自分を大切にできない子どもを生み出す背景にある。
かつて親の愛というのは、
個人的なレベルの愛情にとどまるものではなく、神が授けてくれた子を育てる
聖なる役割をも意味した。
子供を神からの授かり物とみなすがゆえに
どんな子であろうと、
個人の欲望や都合を超えて、
子供を慈しむことに強い裏付けが与えられたのだ。
また、親は子にとって、
単なる欲望を持った一人の人間ではなかった。親は自分に存在を与えてくれた聖なる媒介者でもあったのだ。
それゆえ、少々自分の顔が不細工であろうと、親から頂いた大切な体だからと、
粗末にすることを戒める考えも成り立ったのである。
ところが聖なるものが失われた今日、
人間のエゴいスティックな欲望と意志だけが、この世には渦巻くことになってしまった。
ありのままではなく、自分が望んだ通りの子供を、自分が望んだがゆえに愛する。
それは、実は子供を愛しているというよりも、自分自身の欲望を愛しているに過ぎないのである。
親がそうならば、子供の方も、
自分を傷つけようが死んでしまおうが
自分の勝手だという理屈になる。
現代の子供は、親のさもしい自己愛を
見透かしてしまっているのである。
***********
文章にしてもらうと
あ~なるほど~
と思うのですが、
渦中にいると
自分責めで自分の存在が
親を満たしてないと
勘違いしてしまいがちです。
私も以前は自分を
大切に生きるって事が分からずに
自分責めのスパイラルに
はまっていました。
それから親の立場での自己愛、
濃いか薄いかで自分の中にも
存在しているように思います。
子どもは親の望む子供像を
視野に入れます。
そういった親の願望、
それにそぐわない自分をひしひしと
感じ自分を卑下してしまいやすいです。
子供の立場の私、
親の立場の私、
子供の"本来の姿"という心を大切に
しているかな、
と自答自問しながら読みました。
あなたはどうですか?

心理セラピー
お申し込み・詳細はこちらから
