こんにちは (*>ω<*)ゞ

 

本年最後の投稿に間に合うかな?

新年初になるかもwアセアセ

 

これというブログネタも無いので

しばらく冬眠するかと

思ってたら

 

先日届いた四国中央市の広報誌

令和6年1月号

 

表表紙に「白い恋人」

石屋製菓株式会社が紹介されてる~

 

正直言って

 

市報なんて

普段、あまり見ないのですが

 

ページを繰ってみると

 

1896(明治29)年に

 

宇摩郡関川村の青年、

石水七之助さんが

屯田兵に応募して

 

場所は書いてないけど

北海道に移住したらしい

 

やった!

ヽ(・∀・)ノ ワチョーイ♪

 

ブログネタが出来たがねww

 

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1875(明治8)年の

札幌郊外の琴似を皮切りに

 

1899(明治32)の

士別・剣淵まで

 

全国から集まった屯田兵は

北海道内の37兵村に入植し

 

地域の産業文化と

街の基盤を築きました

 

日清戦争終結翌年の

1896(明治29)年に

 

移住されたという

石水七之助さんは

 

現在の深川市にあった

北一已(イチヤン)兵村に

 

入地されたようである

 

 

↑↑画像をクリックすると拡大出来ます

 

一已村

 

石水さんの住まいは

練兵場の一角にあった様です

 

一已

入植年 明治28(1895)年

     明治29(1896)年 

入植地 深川市一已町

出身地 北陸から九州まで 22道府県

入植戸数 400戸

 

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↑↑

画像をクリックするとデータベース検索画面になります

 

北海道屯田倶楽部のデータベースで

 

国を守りながら

原始の森を豊穣の大地に変える

 

そんな困難な使命と

過酷な自然に立ち向かった

 

7,337名の屯田兵名簿が

閲覧可能です

 

北一已兵村に入地した屯田兵は

212名でそのうち

愛媛県宇摩郡出身者は13名

 

 

全兵村では71名で

屯田兵の0.96%を宇摩郡出身者が占めている

 

因みに

愛媛県で検索すると303名ですが

 

その中には

原籍が空白の方も居られるので

 

その中にもまだ宇摩郡出身の方が

居られる可能性もあります

 

 

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七之助さんの弟、石水八郎さん一家が

兄を頼って

明治32年に北海道に移住

 

八郎さんの息子

石水亀一さんが自家製のアメ屋を始める

 

昭和22年、

亀一さんと息子の幸安さん

親子で駄菓子の製造を始める

 

昭和34年、幸安さんが

資本金100万円、従業員10人で

石屋製菓(株)を設立

 

 

2007(平成19)年には

 

賞味期限延長・改竄、

大腸菌検出など

一連の不祥事が発覚し

 

白い恋人パークも閉鎖

どうなるのかと思いましたが

 

驚くほどに早く復活しましたね

 

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石屋製菓と云えば

「白い恋人」

 

中央の白い山は

 

オタトマリ沼から見た利尻富士

と聞いたことがあります

 

信頼度 Cニヤリあせるだけど

 

比べてみると

似てる~

 

利尻富士は見る方角で

まったく形が異なるので

 

まんざら嘘でもなさそうじゃがね

 

補足【追記】

記憶の中ではオダトマリ沼だったので

確認してみたニコニコ

 

「オダトマリ沼」 → 「オタトマリ沼」 と

名前が変わってる〜!びっくり

 

念の為他の方のブログでも確認ww

 

やっぱり濁点になってるやん

 

1986年当時は東利尻町だったけど

町の名前も利尻富士町になってるね~

 

 

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「白い恋人」は

無難な味以上に

 

何よりもコマーシャルが上手かった

という印象があります

 

 

胸キュンドラマ仕立ての

ヒロイン未満シリーズ(CM)飛び出すハート

 

昨年9月に偶然ビデオテープから

発掘しアメブロにも投稿しました煽りあせる

↓↓

これも信頼度Cニヤリあせるですが

 

作曲は平尾昌晃さんって

聞いたことがあります

 

Lovin' you ~ 気持ちわかるかな~♪

Lovin' you ~ こころ届くかな~♫

手探りしてみる私 ヒロイン未満~♬

白い恋人~(^^♪

 

 

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宇摩郡からの北海道入植には

他にも一つ

印象深い事がありました

 

 

1980年代中頃

札幌から道北への出張コース

 

道北の上川、宗谷支庁

 

和寒、剣淵、士別、名寄、美深、

北見枝幸、浜頓別、稚内

 

札幌から上川郡を目指すには
早朝5時前に出発しても
 
主幹国道の12号線では
旭川市内で道が混み合います
 
12号線と並行して
雨竜川を遡る国道275号線
 
此方は交通量が少ないし
 
旭川市内の
朝の通勤ラッシュを避けられる
 
留萌本線を横切って
沼田町に入ると
 
今度は1995年に廃止された
深名線を右に左に
 
深川から幌加内を経て
朱鞠内湖岸を周り
 
美深町まで続きますが
朱鞠内湖周辺は冬季通行止でした
 
 
 
朱鞠内湖西岸を周り
名寄に至るJR深名線の
 
1981(昭和56年)度の
営業係数は2,901で
 
1985(昭和60)年度の
営業係数は3,641ガーン
 
日本一の赤字ローカル線
と云われた深名線が
 
JR北海道誕生後まで
生き延びたのは
 
朱鞠内湖周辺の豪雪と
道路の改良工事が進んでおらず
 
冬季における代替道路が
未整備という理由でした
 
 
国道275号線をひたすら北上して
幌加内町より和寒峠を越えて
和寒町に至り国道40号線に合流する
 
和寒峠は未舗装でしたが
冬期も通行可能で
 
真冬でもよく利用しました
 
 
ある時、
士別から札幌へ向かっての帰り道
 
「宇摩」という標識に気付いて
へぇ~と思ったら
 
続いて「東予」の標識が
現れたびっくり
 
故郷の名前が二つも続くなんて
なんか懐かしくて
 
不思議な気分やなぁ~
って思ってたww
 
場所は深名線(1995年廃止)の
幌成駅と多度志駅の間
 
正規の駅では無いけど
宇摩って仮乗降場もあったかな~
 
1977(昭和52)年の空中写真(国土地理院)
 
宇摩仮乗降場付近を拡大すると↑
 
1987(昭和62)年4月1日 
 国鉄分割民営化により
 
国鉄からJR北海道に継承と
同時に駅に昇格し宇摩駅となったそうな
 
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それから、
30年以上の歳月が経って
 
2019(令和元)年8月1日の
愛媛新聞の記事を目にしました
 
愛媛県西条市出身の桑原真人氏の
「ふるさと伝言」
 
「東予団体と宇摩団体」
1986(明治19)年から1922(大正11)年までは
北海道移住の最盛期であるが、
この間に約201万人が移住した。
 
その多くは個人移民であるが、
道庁は1892(明治25)年に「団結移住ニ関スル要領」
を定めて団体移住を奨励した。
 
北海道の自治体の地区や字には、
府県の地名に由来する事例を多数見出すことができる。
 
これは、当該地域から団体移民が移住した名残である。
このように愛媛県の北海道移民の多くは
東予の農村地帯から送り出され、
ブラジルなどの海外移民が
比較的多い南予とは対照的だった。
 
沼田町の東予は雨竜川右岸の水田地帯で、
1996(明治29)年に宇摩郡中之庄村、豊岡村、中曽根村
(いずれも現四国中央市)の移民35戸が
宮崎春次を総代人とする東伊予団体(東予団体)を
組織して集団移住した。
 
また、深川市の宇摩は
雨竜川左岸の水田地帯で、
元は雨竜郡多度志町に属した。
1897(明治30)年に宇摩郡野田村(現四国中央市)
八幡神社の神職真鍋家菫が
40戸の宇摩団体を組織して集団移住した。
 
と記事にある
 
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国道275号線とJR深名線
東予団体の移住経過は次のようである。
代表の宮崎は中之庄村で村議などの公職に就いていたが、
1894(明治27)年、高倉要村長とともに北海道開拓の希望を抱いて
空知・上川両地方の現地調査を行った。
帰郷後に大阪から幻灯機を購入し、
郷里の各村を巡回して北海道開拓の有望な事を説いて回り、
35戸の団体を組織した。
 
一行は1896(明治29)年に深川のメムに到着。
土地払い下げが認可され、1897(明治30)年、
当時石狩国雨竜郡北竜村パンケホロマップ原野と
呼ばれた現在地に入植した。
翌年に団体長の宮崎が病死する悲劇もあったが、
息子の万太郎を中心に結束して開拓。
第2次入地者も移住して集落の戸数が増加した東予は、
東予一部と東予二部に分れたが、
各種の事業や行事は共同で行った。
1966(昭和41)年に東予開拓70周年を迎え、
「風雪七十年」と題する記念誌を発行。
9月の記念式典には
郷里の伊予三島市長から祝辞が届けられた。
以上、「沼田町史」
 
宇摩団体の入植地は雨竜川左岸の
約7kmに及ぶ細長い地域で、
真鍋は1895(明治28)年に渡道。
土地選定を行って願書を提出し
翌年貸下げが許可された。
真鍋は自ら代表となり、1897(明治30)年以降
40戸の移民が指定された区画地に入植。
1900(明治33)年までに完了した。
この年、簡易教育所が完成。
郷里の宇摩郡より分霊して宇摩神社を建立し、
ここに「文教の基」が成った。
その後、宇摩は下宇摩と上宇摩に分かれ、
1951(昭和26)年には宇摩団体開拓55周年を迎えて、
9月に記念式典が盛大に行われた。
以上、「多度志町史」
 
 

桑原氏は

「東予団体や宇摩団体が開拓に成功した理由は、

代表が村議や神職といった地域名望家であり、

率先して渡道、土地選定や開拓を指導した点にあるが、

団体を構成する人々の

開拓に懸けた強い意志と努力に勝るものはない。」

 

と結んでいる

 

- - - - - - - - - - - - - ↓ココカラ

深名線の宇摩乗降場を探してて

内地地名「宇摩」、「東予」を扱った記事を発見

リンクを追加しました

 

 

↑↑追記 2024/1/15

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - ↑ココマデ

 
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偶然にも
 
石屋製菓のルーツ石水七之助さん
と東予団体の35戸は
1896(明治29)年に入地(入植)し
 
宇摩団体の40戸も
翌1897(明治30)年に入植
 
場所も隣り合わせの
沼田町と深川市でしたね~

 

1886(明治19)年の

北海道庁設置から138年

 

当初開拓を担った鉄道網も

石炭産業の衰退と過疎化

 

モータリゼーションによる

道路網の整備等々

 

時代の流れで

消えかけてる~

 

先人たちが多くの犠牲を払って

築いた鉄道網

 

トラックやバスの運転士不足が

叫ばれる今

 

何とか上手く活かす

手立ては無いものでしょうかね

 

 

最後まで、ご覧頂きまして

ありがとうございます照れ

 

何とか年内に投稿出来そうなので

今年最後の記事になりそ~

 

 

今年も拙いブログに

お立ち寄り頂いた皆さま

 

本当にありがとうございました!

 

来年もよろしくお願いします

 

良いお年をお迎え下さいね~

 

では、またバイバイ