しかし、よくも考えが深まった時に、機運や運気の着想は突然訪れるわけであります。まるで、待ちわびた雨の降った翌日に土の中から1米も伸びて顔を出した筍のように、ひょっこりと、堂々と。
長い冬を乗り越えて迎えた春の訪れを私の場合には、このように迎えます。遠方よりよくぞ来ていただきました、心よりお待ちしていましたと優しく握手するように。俄かに溢れ出た思考、感情については、ときに想定外の発想を伴い、ときに、鮮烈な思考が具現化され、形而下に落とし込まれるのです。
さきほど、よくも考えが深まったときと申しましたが、それはやや具体化すると、思考の洗練化であります。たとえば、ある人が今の仕事の今後のあり方に深く考えているとします。上司に罵倒される毎日、深夜労働が相まって実は辞めたいが、家族のことを考えると勢いに任せるわけにはいかない。葛藤の日々にもやもやとした感情、鬱積する思考。やりたいことは沢山ある。まだまだ曖昧ではあるが夢もある。しかしその仕事で食べていける自信がない。いかにしてこの人生を生きるべきか、その究極的な命題をも含んだこの問いに自問自答し続けることになるわけであります。そして、その言葉にならないもがき苦しむ自問自答の中で、ある日突然、未来が拓ける着想が生まれるのです。自問自答とは云いましたけれど、無意識にその命題に対し対峙することでその着想は生まれると思われます。無意識に対峙というのもおかしな話ですが。自分と関わるすべてのことからヒントを探す無意識という構図が、やはり内部に潜んでいるように思われるのです。