問題Q
(⭕or❌)
①前漢にはまだ波磔を持った隷書は存在しなかった
②「魯公王刻石」は古隷であるといわれている
③オチで爆笑した
『前漢』BC206-9
始皇帝の死後、反乱軍を率いて秦を倒した劉邦は漢王朝を作った。
劉邦は高祖となり秦の制度を継承しつつ、変えつつのいいとこ取りで反乱で疲弊していた国力を回復していった。
5代目の文帝は儒教を尊び、内政を充実させた。
7代目の武帝は積極的外交(武力込み)で領土を最大まで広げた。
(しかし、ちょっと武力にお金を使いすぎてこの頃あたりから国力は下り気味に……)
この時、初めて年号がたてられ、2000年ぐらい行われ続けた(日本は未だに使っている「令和」とか)。
海外交流、国土最大。思想も儒教に統一され学問も盛んになる。
とても賑わい、新しいものもどんどん入ってきただろう時代。
新しい方向に向かっていただろう時代。
しかし14代目の平帝の時、皇太后の甥、王莽(おうもう)が陰謀により帝位を奪った!
ここで一旦、漢王朝は中断する。ここまでが『前漢』(9年)。
王莽の作った国は『新』。
「新」なのに、まさかの復古主義!周の周公旦の制度方法を復活させようとしたが、もはや時代に合わず、20年ぐらいで漢の王族に倒さた。
そして、再統一し、漢王朝を復活させたのが劉秀(光武帝)。ここからが『後漢』となり……、
続く……
隷書
殷の甲骨文→周の金文→秦の小篆……
と時代それぞれイメージできる書体がある。
漢は隷書、というイメージが大きい。
人は忙しくなるにつれ、速書きされた篆書がすでに戦国末から秦で書かれていた(それは「秦隷」ともいわれる)。
漢になると徐々に便利な隷書に代わっていった。
王莽の新は「古に帰ろう」政策をとり、金文や小篆に戻そうとしたが、新しい書体(『隷書』)への変遷のうねりは止められなかった。
古隷……波磔のない無い素朴で古風な隷書。
八分隷……装飾的な波磔のある隷書。
波磔……波を打つような右払い。
(※諸説あり)
↓同じ頃の木簡
書道史ロマン
前漢は刻石の資料は少ないものの、1900年代に発見された木簡などで当時の手書き文字が知れるようになった。
正式な(?)刻石の文字と常用の木簡の文字との差がおもしろい。
おそらく、殷代のように限られた職種の人しか文字を扱わなかったならば、そのまま変わることはなかったかもしれない。
広まって、より実用的に、より美しく、数百年かけて変わっていく……。それは、誰にも止められない大きな流れ。
同時の人達が知るよしもない、隷書の極地「曹全碑」、書聖「王羲之」、初唐の三大家、顔真卿、宋の四大家、王鐸、鄧石如、呉昌碩……、そして現代の私たち。
そして私たちも知るよしもない未来の書……。
この壮大で大きな流れを「マロン」と言わずなんと言おうか。
参考文献