書道に限らず、何かを学んだり、習得したり、深めたりするときに、必ずぶち当たる「量か質か問題」。


「闇雲に書いてるだけで意味があるのか?」

「漠然と書いても意味がないのでは!」

「数が目的になってないかい?」


と自問自答したり、

他問窮答(?)に陥ったりすることもあり、


自分で書いていて非常に耳が痛いところですが……🙉、


完全個人的意見を述べさせて頂けるとしたら

僕は「量」派❗



なかなか上達を実感できない書道ですので、

僕ぐらいの凡人になると、積み上がる反古紙でしか自信が得られませんのです🙈


そして、筆を扱う技術(例えば、線の「太細の変化」は太いと細いの二種ではなく、その間はグラデーションであり無限の変化が可能❗そしてそれをどれぐらい意図的に使えるかが技術❗)

は、感覚的なものなので、量をこなすことでしか習得できないものだと思います。



ん……❗❓


そのような意識を持ちながら練習するのが「質」!?


よくわからなくなってきました~~(笑)



でもまあ、『呪術廻戦』に、
「目と技術の上達では、見る目が先に上達する」みたいなことが書いてありました。

「書けない……」とか「私の字はまだまだダメダメだ……」という感覚は書道あるあるですが、もしかすると、それは、鍛えられた目👀に対して、技術が追い付いていない状態なのかもしれません。

古典やお手本や人の作品を見る時間に対し、書く時間は圧倒的に少ないので、
目👀(=理想)に追い付こうとする行為こそ、「量」をこなす意義なのです。

そう考えると目👀も技術も向上させてくれる「臨書」、何て素晴らしいのでしょう(笑)❗




「質」とは、より効率的に、より要領よく学ぶ事であり、それはとても大切なこと。

分かりやすい参考書や学び方の指南本、
偉大なる師匠の教え、
示唆に富んだ過去の大家の名言、

などは、大いに「質」を高めてくれます。
ある意味「答え」と言っていいかもしれません。

しかしそれを唯一の「答え」として受け止めてしまうと、「書道には答えはない」というよく言われる前提と矛盾してしまいます。

それらをヒントとして、自分なりの見方を作っていく、更新していくのが「書道」。

何なら、自分で「質」を作って行くのが「書道」。

背勢や鋭い線が売りの「九成宮醴泉銘」に暖かみを感じてもいいし、
飾り気のない「甲骨文」にオシャレさを感じてもオッケー👌

一問一答で「完成」させてしまうのは勿体ない❗

AIなど技術革新でどんどん便利になる時代です。さらには人生100年時代といわれます❗

ってことは、自分の時間が増えるということ。

逆に何故かどんどん忙しくなっちゃってる方も大勢いますが、

王羲之も「俺ももっと書に向き合う時間を増やせたら、張芝ぐらいのレベルまでいけるぜ❕」みたいな感じの事を言っていた……と何かで読んだ気がします。

有り余る時間を、少し書道に振り分けて、
1人でニヤニヤしながら人生楽しむのも
悪くないと思います。


って、何の話してたんだっけ(笑)❗❗

そうでした、「量か質か」でした😋



結論は………、


量も質も両方大切❗❗

(笑)


杜撰なオチと共に(笑)、


『謎の自称書道家みかんせい人🍊の

1000臨やります❗』


270臨目「争座位稿」

41回目の全臨です🍊