僕は微笑んだ。
「良いですよ。サンチャゴさんに頼んで海の魚をおみやげに包みましょうか」
鳥は首を振った。
「なかなか心惹かれるアイデアですが、そうではありません…。たすけてほしいのです。人は言葉を積み上げて三次元化し、月にも行くことができたと聞きました。それほどの事ができるのであれば、今この時も地球上から絶滅している生き物達を助けてくれませんか。ワタクシの同胞たちもずいぶん数が減ってしまいました…。方法は深い森の中に必ずあるはずなのです。その森羅万象を表す言葉の中に」
「…森羅万象ってちょっと広すぎやしませんか。この海のようじゃありませんか。それに鳥さんは絶滅危惧種だったんですか?」
「まぼろしの又の名をそういうのであれば…そうなのでしょう」
鳥はつらそうに言った。
「気の毒だし、申し訳ないけれど僕には出来ません。僕よりもっと向いた人が居るはずです」
「…どうしてもですか」
鳥の青い瞳の中に僕が映りこんでいた。中途半端なことを言ってはいけないと感じた。
「ええ…」
鳥はまばたきもせずに嘴を大きく開けて固まってしまった。大丈夫だろうか。僕は鳥さんに近寄ろうと足を踏み出したとき,舟の底板につまずいた。
[あ、痛ぁ…」
その拍子に舟が揺らぎ思わずしゃがんだ僕は周りを見渡すと、広い広い空と海。その間に漂う小さな舟に乗っている更に小さくちっぽけな自分。その手に視線を落とした。
「まあ なんだ。そんなに何もかもいっぺんに考えることもなかろうよ」老人は舟に引き上げて肘を預けていた櫂から身体を戻しながら言った。
「サンチャゴさん…?」
「お前さん、仕事はなんだ」
「学生です。今年に春に大学に入りました。まだ仕事には就いていません」
「じゃあ、まだ何も始まっとらんじゃないか。それに言葉なら儂も持っているぞ。『老人と海』 だ。SEA(海)はSHE(彼女)なのさ。そう思うと、嵐で舟が出せず漁が出来んときでも、魚がさっぱり網にかからんときでも運を天に任せてやっていこうと思うんだ。そして魚が捕れたときには海に感謝する。その魚を糧にして誰かが生きている。それが儂の誇りだ。儂が儂ってことなんだ」
「パコパコパコ!」鳥は急に嘴を鳴らした。
老人と僕はびっくりして鳥を振り向くと鳥は老人を真っ直ぐ見据えて言った。
「いつから自分が小説の中の二次元の存在だと知ったのです?」
「いつからかは分からない…。しかし夢の中で『ああ今、自分は夢を見ているんだ』と自覚するぐらいには分かっていたさ。みんなそうじゃないのか。それにさっきそこの若いのが『本の世界』と言っていたしな」
「ああっごめん!サンチャゴさん」僕は頭を抱えた。
「ははは、何も謝ることなんかねえよ。よく考えてお前さんの…を見つけるんだな」
「ご老人、波の音でよく聞こえませんでした。それはアイデンティティですか。それとも…」鳥は嘴をはさんだ。
「あいでんてぃ…?そんな魚は知らねえな。ああ、それよりも降ってきやがっ たぞ」
三人が空を見上げると白いモノがひらひらと傾き始めた夕日に照らされていた。まるで舞台に降る雪のようだ。
「雪?。こんな南の国で…それに雪雲もないのに…」
僕は両の手のひらでそっと雪を受けとめた。雪は手のひらの中でゆっくりと融けてゆく。僕は忘れていた懐かしいものに出会えた気がした。しかしそれを見ていた鳥は首を振った。
「これは雪ではありません。本に書かれた言葉が結晶化して降っているのです。この本はパスワードが出たことに気づいたようです。自らそのページを閉じようとしています」
「えっ、此処ではそんなことが起こるんですか。あれ、なんだかサンチャゴさんが透けてやしませんか?」
僕は目をこすった。遥か向こうにある島の稜線が、老人の身体を通して透けて見える。老人も驚いたように自分の両手を目の前にかざした。いけない!これでは老人が消えてしまう。急いで助けなきゃ。どうすればいい?僕は夢中で老人の腕をつかもうとした。けれど僕の手は宙をかくばかりで老人に触れることができない。
「鳥さん!こんなときどうしたらいいんですか!鳥さんは何か知っているんでしょう…」
「ご老人は…彼は言葉でのみで出来ている存在なので本が閉じようとしてる今、姿を保つことができないのです」 鳥はうつむいた。
「そんな、僕は舟に乗り込むとき手を貸してもらったんだ。確かに此処に居るんだよ!」
老人が何か言っている。けれども僕の耳はもう彼の言葉が聞きとれなかった。
「なに?なんて言ってるの…」
老人は少し照れたように右手を僕に差し出した。古傷だらけの大きな手だ。
「あっ、握手!あくしゅ!」
僕も手を差し出した。今度は積み上げたジェンカに最後の一片を乗せるように慎重に。そして目を合わせようと前を向いたとき、そこに老人は居なかった。
見渡すと、此処は元の図書館の一角。足元には一冊の本が落ちていた。
つづく