そうだった。ここは図書館の書架の前。来たときと何も変わってない…。そして僕の目の前には1羽の大きな鳥が立っている。
「さあ、行きましょうか」 鳥は嘴をひらいた。
「何処へ?」 僕は手の甲でガシガシと目蓋をこすった。
「パスワードの指し示すところへです。今回はあの本の状態がどうなっているのかワタクシも見当がつかない。急ぎましょう」
「ちょっと待って」
僕は足元の本を拾い上げると、『老人と海』と書かれた表紙をそっとなでて書架の元の位置へ戻した。鳥は僕を待たずに向こうへ歩き始めている。
「ええと今回はなんでしたっけ…鮪…マグロ…096っと」
急ぐと言ったわりに鳥はのんびりとした足取りで独り言をつぶやいている。はて?パスワードを探し出したのは良いもののそれをどうするというんだろう。そこから先は何も聞いていない。
「あのう…パスワードってそもそも何なんでしょう。入り込んだ本の中からパスワードを探し出した事と、本そのものを探し出す事と、どう違うんですか?」
鳥は僕を振り返りもせず歩きながら答えた。
「あの本は…地球上のどこかで動物が絶滅するたびに絶滅したその種が自ら書き足される本なのです。いわば道の軌跡を著したもの。そしてパスワードは、海の中から不意に姿を現す氷山の位置を示す座標軸。それが言葉になる3つの数、すなわちパスワートなのです。解りますか?」
「ぜんぜん解りません。もうちょっと分かりやすく言ってもらえませんか」
鳥は軽くため息をつき立ち止まると片翼の指先、いや手羽先を高くかかげて書架の横に貼ってあるプレートを得意げに指し示した。
「では、言い方を変えましょう。図書館の書架に並んでいる本には全て背表紙に3つの数が付与してあります。これは図書館ごとに責任を持って決められた番号なのです」
「…本の背表紙の番号ということは図書館番号だ…ってことはパスワードがすなわち図書館番号ってこと?。その番号を探しだせば目的の本がある。あれ?それなら鳥さんが始めからそこに行けばいいんじゃ…」
僕は身体の力が抜けて膝をつきそうになった。
「そうですねぇ…あるといえばある。ないといえばない。概念は発見なのか創造なのか、貴方は判りますか。あの本はそういったたぐいのものなのです。それにワタクシでは時代が何を指し示しているのかまでは分かりませんし」
「時代はともかく概念の出どころなんて僕にも分かりませんよ。でも、それじゃまるでサギ…」
僕が言葉を最後まで言い終わらないうちに、鳥は振り返りギロリと鋭い目で僕を見据えた。その様子に僕はギクリとした。
「ワタクシはペリカン目ハシビロコウ科ハシビロコウです。お間違えなく…」
「えっ、違っ…はい。その名前を繰り返すパターンて、もしかしてハシビロコウは1属1種ですか?」
「うふふ、分かりますか、そうなんです。特異な進化を遂げた貴重な種なのですよ。」
「なるほど…どうりで独特の風貌だ」
「……。」
なんだか話が噛み合わないような妙に噛み合ったような複雑な気持ちで、ふたたび歩き始めた鳥の後ろ頭をぼんやりと見た。
「遅れないでくださいよ」鳥は後ろ頭の飾り羽根を揺らして注意してきた。
「ああ、うん」僕も歩き始めた。
海外小説、国内小説、図鑑、実用書。鳥と僕は幾つもの書架の角を曲がった。僕はこんな所では絶対にいるはずの無い鳥が、目の前を普通に歩いてる理由を知りたくなって歩きながらさり気なく…(後から考えるとめちゃめちゃワザとらしかった!)鳥に話し掛けた。
「鳥さんは、此処はもう長いんですよね、なぜ此処で『異次元の扉の番人』というお役目をするようになったんですか?」
鳥は僕を見上げるとパチクリとまばたきをした。今までそんな質問なんて受けたこと無いって表情だ。
「そうですね。ワタクシが此処に来てから長い年月が経ちました。このお役目のことを話すには、まず、ワタクシがタマゴから孵った頃の話をいたしましょう。ワタクシの一族は通常1回の巣作りで2個ほどのタマゴを孵化させます。そして先に孵った雛は後から孵った雛を殺してしまうオキテがあるのですよ」
「えっ!…そんな酷い。2個めのタマゴ、可哀そう過ぎる…」
「今のニンゲンの物差しでは、さぞ理解しかねることでしょう。ワタクシもタマゴの殻から出た当初は訳が分からずに戸惑うばかりでした。もう少しで先に孵った兄から殺されるところを、お役目の引き継ぎを探していた先代の『異次元の扉の番人』から助けてもらったのです」
「ここそういうシステムなんですか?いや、そうじゃなくて何故、そんなオキテがあるんですか」
「ワタクシが思うには、タマゴの孵化にはバラつきがあるのではないかと。抱卵しても孵化が始まらないタマゴや孵化の途中で死んでしまうタマゴは案外多いものです…」
「えっ、つまり2個めは保険ということ?。2個とも孵ったのなら2羽めもそのまま育てればいいのに!」
「アフリカの自然は過酷なのですよ。孵った雛の2羽ともが餌が足りずに弱ってしまうより、1羽のみを大きく育てる方が種の存続には確実なのです」
「…鳥さんはそれでいいんですか」
「もちろん、兄より3日遅れで孵った我が身の不運をうらみました。でも、どうすることが出来たというのでしょう。逆の立場ならワタクシも兄と同じことをしていた筈なのに…しかしこうも思いました。あれは『もう一人の自分』なのだと。ワタクシはあの頃を思い出すたびに、遠くからでいい、兄に会いたいと無性に思ってしまうのです…」鳥は思い出を辿るように目蓋をそっと閉じた。
僕は急に喉が詰まってしまい擦れたような声で、鳥に尋ねた。
「そんな幼いときに別れたっきりのお兄さんを見分けることが出来ますか…」
「ああ、その件なら大丈夫。兄とワタクシはそっくりですから!。もう1度、会うことが出来たなら、その時こそワタクシたち兄弟は『許し』という言葉の意味を知るでしょう。それなのに、あの湿原を上空からいくら探しても兄を見つけることが出来ないのです…」
「あのう…鳥さん…」僕は軽くむせた。「コホン…あのう…」僕の頭の中は言いたい事がぐるぐると空回りして言葉にならない。モジモジしているとひとあし先を歩く鳥の嬉しそうな声がした。
「あった、此処だ!」
096の番号が含まれるプレートの書架を見つけたようだ。そして僕らは一緒に最後の角を曲がった。
…目の前の光景に僕たちは立ちすくんだ。一冊の本が床に転がっていた。自ら書き足されて増えていったとみられるページは背表紙の厚みを越え書架の棚でバランスを崩し、床に落ちてしまったようだった。
隣にいる鳥はぶるぶると震えていた。
「こんなことは初めてだ…さっき巡回パトロールしたときは異常なかったのに…ああ、早く本を拾って下さい。ワタクシの嘴と爪では本を傷つけてしまう…」
「分かりました。あれ、ページが取れかかってる…」本を拾うためにかがんだ僕は、そのまましゃがみこんで本を床にトントンしてページをそろえた。
「わああ、本が目を回してしまう!そおっと…そおっと扱って下さいぃぃ」鳥は悲痛な声をあげた。壁に貼ってある『図書館の本はみんなのものです。次に利用する人のためにも大切に扱いましょう』というポスターが逆光の鳥の頭越しに見えた。なんかリンクしている。
「すいません。でも本が見つかって良かったですね。背表紙の番号も096で間違いありませんよ」
そう言いながら立ち上がった僕はそおっとページを繰った。
「あれ、こんな文字、見たこと無い。いったいどこの国の文字なんです?」
鳥は秘密でも打ち明けるような、ひそひそとした声で答えた。
「これは、はるか昔に栄え、そして消えていった文明で使われていた文字。いつもは本がある時代と場所で使われている文字にしている筈なんですが…、やはり今回は差し迫っている。行きましょう、さあ、その本を持ってワタクシについてきて下さい」
鳥はそう言うと、身体をたわませてから一気に飛翔した。
「ちょ、ちょっと待って!」
僕は本をしっかりと抱えて追いかけた。何処へ行った?書架の縦の通路できょろきょろと見回すと図書館エントランス正面にある、広い階段の降り口の手前に鳥は飛んでいった。速い!僕はそこへ走る。
もう少しで追いつくところで鳥は更にその階段の下へと滑空した。
そして、階段の上と下とで僕らは向かい合った。
鳥はそのたたんだ翼をゆっくりと横へ広げ片足を後ろに引いて、その身を低くすると言った。
「ようこそ、地下のフロアへ…」
僕は慎重にうなずくと階段を降りるべく足を踏み出した。
つづく
2016年5月6日
