世の中には、類まれなる個性や能力を持った人が、そう多くはありませんが、一定数はいます。



もちろん、「類まれなる」が人類相対的な言葉なんで、そう多くはないが一定数いるというのは至極当然ね話です。



つまり、人類が絶対値100前後の能力かあるいは50000前後なのかはあんまりいみはないです。



そもそも、そんなことを考えるのが人類の特権(性能)だからです。

要は人類平均値とそこからの統計のなんとか分布とか、偏差値的な話で、人類にも能力の差が中央値的なものを中心にバラツキがあるってことです。




で、ここで言いたいのは


人類平均値から精神力。能力的に大分上位に来るような、将来偉人になって世界を有意義に変えたかもしれない人でも、


親ガチャ外して、クソ親の下で、赤ん坊の最初っから、

お前はダメだねー

何やってもダメな子だねー



と、毒のクソシャワーを浴び続けて育つと




しっかりと、偉人の片鱗もない、凡人となるのである。

しかしながら、本人の中では、本来の能力を持ちつつ、クソ親から浴びせられた毒及びそれに伴う子ども時代の不幸な記憶という負債を処理しながら社会人として仕事しながら生きるのでどうしても、エネルギーが不足して、本来の類まれなる能力を知りつつも、現実世界ではヘンテコリンで下手したらキテレツなイタイ人間を演じていたりするというそのギャップにさらに苦悩したりするのである。




だから


何を言いたいのかというと、



母親からの乳児期、幼少期、子ども期の、



その無垢な

無垢な魂への


安易な

安易すぎるゆえの毒のシャワーの


その、人の魂や、その能力を



簡単に土くれにしてしまえるその力に




人は、



あるいは、社会は


もっと刮目すべきなのだ。