先日のあいみょんライブツアー「ま あ る」では、私の知らない曲も結構あった。

 

 あいみょん大好きな私ではあるが、シングルのいわゆるB面にはまだ聴いたことがない曲もある。

 A面の曲がアルバムに入っていれば、わざわざB面のためにCD買うのもなあという感じで何となく買わなかったというのもあるが、アルバム等の曲だけでも未だ消化しきれていないので、見知らぬ曲を聴くことに臆病というか億劫になっているというのもあった。

 

 その知らない曲のうち、歌詞がなんか、あいみょんっぽくないなあという曲があった。

 とはいっても、「・・やぶれかぶれになって ぶつかり合う日々をやめよう・・」なんていう歌詞のセンスに感動したりはしていたのだが、何の歌なんだろうなあと流れるままに聴いていたのだが、ラストのどんでん返しの歌詞にまた腰が抜けそうになった。

 なるほど。

 さすがあいみょんとまた脱帽したのである。

 と同時に、他の知らない曲もどんどんと聴いていかねばなあと思った。

 

※言い争いの心情はまさに「やぶれかぶれ」と表現がふさわしい。と同時になんだか暖かさというか、コミカルというか人間くささを感じさせる表現だと思いませんか。

 仮に、「憎みあって ぶつかり合う日々をやめよう」とか「重苦しい雰囲気で ぶつかり合う日々をやめよう」とか、絶望的になって・・とかだと暗くて冷たくてマイナスイメージの方が大きくて辛い感じが強いですよね。

 そういうとこです。

 

 話は変わるが、今日のサンジャポで子どものマスク着用是非のコーナーがあり、ゲストで益田慎という小児関係の医師がリモート出演し、マスクで相手の表情が見えないことにより、子どもの言語性学習障害の心配があるという話をしておられた。

 

 先生曰く、子どもは、言葉の細かいニュアンスを、例えば助詞の一つに至るまで、その言葉を使った際の相手の微妙な表情の変化(間違った使い方をしたら、「ん?」って表情のフィードバックがある。)により、この言葉の持つ意味、微妙なニュアンス、この場で使うのにふさわしいのかどうかを学習していくのだが、大人がマスクをしていることでそれが阻害されるのではないかと危惧しているという趣旨のことであった。

 

 助詞の例では、たしか、「僕は○○へ行く」と「僕が〇〇へ行く」というのでは、ほぼ同じことを言っているものの少し意味合いが異なり、そういうニュアンスも話している相手の表情で学習をしていくということを言っていたと思う。

 

 

 この話を聞いて、ああ確かに助詞一文字で伝えられるニュアンスという面白さを再認識した。あいみょんの歌詞もまさしく、短い言葉でいかに人を刺す言葉を作るかということなのだと思っている。

 

 話をテレパしいに戻すと、

 ラストの歌詞、改めて聞いてみると、その助詞の使い方、一文字であるが完璧である。言い回しが正確なのである。そんなところにもまた感嘆する。

 

 

 まあ、聴いてみてほしい。