フランク王国は、スパッと東西に2分割でしょ?ちゃうよ、4分割後、3分割だよ!


フランク王国の成立(481年メロヴィング朝成立)

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4分王国アウストラシア分王国、ネウストリア分王国、ブルグント分王国、アキテーヌ分王国)
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再統一(6世紀半ば)

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フランク王国(751年カロリング朝成立)
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3王国に分割(東フランク王国・中フランク王国・西フランク王国)
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統一(ほんの一時期)

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3王国に分割(東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国)
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フランク王国の成立(481年、メロヴィング家のクローヴィスがガリア地方を制圧し王位に就いたのが始まり)は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。

❷フランク王国では分割相続がとられた。これらの4分王国(アウストラシア分王国、ネウストリア分王国、ブルグント分王国、アキテーヌ分王国)は、

6世紀半ば再統一されることもあったが、多くの分国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が宮宰の地位について貴族を統率していた。

❹とりわけ、アウストラシア分王国ではカロリング家が宮宰の地位を世襲化しており、7世紀後半の宮宰ピピン2世は全ての分王国における宮宰職を独占するに至った。

こうして、既にカロリング家はフランク王国における事実上の支配者となっていた。751年にローマ教皇の支持下でピピン3世がフランク国王となった。

❺843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。

ほんの一時期、カール3世が統一したこともあるが、ごく短期間で崩壊した。

中フランク王国は、855年のロタール1世の死後、遺領は息子たちがこれをロタリンギア、プロヴァンスおよびイタリアに3分して治め、870年メルセン条約で、それぞれ東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国に3割譲された。

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東フランク王国は、後の神聖ローマ帝国(962年-1806年)・ドイツ帝国(1871年-1918年)・ナチス・ドイツ(1933年-1945年)につながっていく。

西フランク王国は、後のフランス王国(987年-1791年)・フランス帝国(1804年-1814年)に相当する。

中フランク王国は、北部の領土を東西フランク王国によって分割吸収され、南部の領土をイタリアに集約された。


-フランク王国 - Wikipedia-及び-中部フランク王国とは - Weblio辞書-より



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