―「場を閉じる」という責任について
セカイムラでの活動や、
お祭り・イベントに関わる中で、
最近、強く感じたことがあります。
人が集まり、
役割を持ち、
何かを成し遂げる。
その「達成」自体は、確かに大切。
でも、今の私の中で、
それ以上に引っかかっていたのは、
祝祭の場は、開いたら、閉じるところまで
セカイムラでは、
上下関係ではなく、
強制でもなく、
それぞれが意思を持って関わります。
だからこそ、
「各自の判断で抜ける」
という自由も、とても大切にされている。
でも今回、
LINEグループや配信ツールといった
デジタルの場を通して、
ひとつの違和感に触れました。
役割を終えたはずの場が、閉じられないまま残っている
という状態でした。
「各自で抜ける」ことで、起きていたこと
感謝の言葉とともに、
一人、また一人と抜けていく。
それ自体は、とても自然で、悪いことではありません。
でも、その裏側で、
-
自分だけ先に抜けていいのかな
-
誰かを置き去りにしていないかな
-
これでちゃんと終わったと言えるのかな
そんな、言葉にならない感覚が
それぞれの中に残っていく。
「断つ」という行為を、個人に委ねてしまっていた
という構造が、そこにありました。
最後に残った人が、背負ってしまうもの
今回、いちばん胸に残ったのは、
気づいたら、最後に一人だけ残っていた
という状況です。
誰が締めるのかも決まっていない。
頼まれたわけでもない。
選んだわけでもない。
ただ、
「最後に残ってしまった人」。
場の設計の問題でした。
セカイムラだからこそ、雑にしたくなかった
セカイムラは、
「誰かが管理する村」ではなく、
「みんなで育てる村」。
だからこそ、
-
場を開いたら
-
役割を終えたら
-
ちゃんと閉じる
そのプロセスまで含めて、
村の営みなんだと、あらためて思いました。
抜けること自体は、自由。
でも、
作った場の後始末をしないまま去る自由と、
循環を完了させる責任は、別もの。
この違和感が、
私の誠実さをずっと刺激していたんだと、
今回、はっきり言葉になりました。
ITが重く感じていた理由
「ITがめんどくさい」
「ツールが苦手」
そう感じていた理由は、
技術ではありませんでした。
終わっていない関係性が、
デジタルの中に残り続けていること。
それが、無意識に
次へ進む力を重くしていた。
ちゃんと締まった場は、
ログとして残っても、重くならない。
むしろ、
「ここで一区切りついた」
という安心感を残してくれます。
これから、村で大切にしたいこと
これからは、
-
グループを作るとき
-
プロジェクトを始めるとき
「どう終わるか」も、最初から共有する。
誰が締めるのか
いつ閉じるのか
どんな言葉で一区切りつけるのか
それは、管理でも、支配でもなく、
村の循環を完了させるための役割。
集める人、動かす人は多い。
でも、
終わらせる人、閉じる人がいるから、
次の営みが、軽やかに始まる。
祝祭のあとも、村はつづく
祝祭は、終わる。
でも、関係性は、続いていく。
だからこそ、
「終わり」を雑にしない。
それが、
セカイムラで生きる私なりの、
ひとつの責任であり、選択です。


祝祭のあと。
ぽっかり空いた空白を
余韻力で次へと繋げる対話はこちら

