二十歳を過ぎても母親の乳を吸っていた文教祖(1)
■二十歳を過ぎても母親の乳を吸っていたと告白した文教祖は23歳で婚約したのだが・・・
マザコン?ドラマの冬彦?特殊な性癖の持ち主の文教祖。
『そのような男の世界を、君たちは知らないのです。先生が今でも忘れることができないのは、お母さんのことです。幼い時、乳を飲んで、お母さんの胸に抱擁されて愛されたことは、一生涯忘れられないのです。男はそういうような気持ちだから、奥さんに対して、お母さんの代わりになってくれればいいと思っているのです。ですから皆さんが、お母さんの代わりになって、よい奥さんになれるようだったら、それ以上効果的なことはないのです。分かりましたか? (はい)。・・・・
しかし、お母さんの 懐 はよいのですが、お母さんとは愛の関係ができません。ですから、お母さんみたいな妻と夫婦生活をする以上のものはないのです。男として、それ以上に望むことはないのです。先生もそうです。ずーっと学校に行っていて、帰ってきたのは二十代も過ぎていたのです。それでも、必ずお母さんの横に寝るのです。寝ながら、昔みたいにお母さんの乳房に触るのです。その思い出が非常に幸福なのです。その感動は一生涯、忘れられないのです。
それから、いろいろ自分のために犠牲になったことがたくさんあるのです。そのお母さんに、こんなにも親不孝して、悪い立場に立たせるとは夢にも思いませんでした。分かりますか? それと同じです。お母さんみたいに、立派な母の心情で抱擁してあげて、その基台の上で、奥さんとして夫婦生活をすれば、それ以上の幸福はないのです。だから、夫も子供を持ったお母さんに対して「お母さん」と言うのです。自分が昔呼んだお母さんのことを連想したいのだから、自分でも知らずに「お母さん」と言うのです。分かりましたか? (はい)。 』
(現地の整備 1993年12月21日 韓国・済州研修院)
『私は、おばあさんと母の心を、何度も溶かしてしまいました。何をもってでしょうか。愛をもってです。おばあさんが年老いても一番好きなのは、どういうことでしょうか。昔、子供を育てていた時の心を忘れないのです。おばあさんが寝ていたら、気づかれないようにさっと入っていって、おばあさんの乳首を触りながら吸うと、おばあさんは「こいつ」とは言わないのです。おしりを軽くたたいてくれるのです。そうしてから、おばあさんのポケットにあるお金もそのまま自分のポケットに突っ込むのです。おばあさんの目を見て笑いながら、ここに入れたり、あそこに入れたりと、そのようにするのです。そうするとおばあさんは、「しょうがないわね、ふふふ」と言いながら、喜んでいるのです。舌を出して喜ぶのを見たのです。それは実験した、経験したことなのです。
私はそうでした。よその土地に行って帰ってくると、母親のところに行って毎日赤ん坊のようにしたのです。昔は私が母親の乳をたくさん吸ったのです。乳を吸うと「この子は、気味が悪い」と言うのですが、喜ぶのです。今でもしてみてください、私の言うことが本当なのか、そうでないのか。』
(真の御父母様の生涯路程1)
『遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。』
(自叙伝「平和を愛する世界人として」より)
(関連記事:変態だと言わないでください)
さらに娘の唇に異常な興味を示す文教祖。
『少女の赤い唇をのぞき込むと実に美しいです。化粧したものはおもしろくありません。ただそのままの自然色が本当に魅力的です。見ていると引きつけられて、我知らず触りたくなるのです。(笑い)うちの子、情進も、じっとのぞき込むとそのカラーが本当に魅力的です。唇を見てください。じっと見ていることができなくて、吸ったり、ぎゅっとかんであげたくなるのです。そのように魅力的です。』
(真の御父母様の生涯路程6より)
文教祖は実の娘の唇をみると「じっとしていられなくなって、吸ったり、かんだりしたい」衝動に駆られるようです。
以前に書いた記事では文教祖が何歳まで母親の乳を吸っていたかが不明でしたが、二十歳を過ぎてからもその異常な性癖が治っていないことがみ言葉から分かりました。
十代ですでにソウルの遊郭(売春街)に通い、二十歳を過ぎて日本に留学してもなお、歓楽街や売春街に行っています。(本人は原理解明のためと言っていますが)
下記は文教祖の二十歳前後の統一教会が公表している略歴です。
1941年4月 昌慶丸に乗って日本留学
1941年4月 早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科入学
1943年9月30日 早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科卒業(10月からの学徒出陣徴兵を逃れるため6ヶ月繰り上げて卒業)
1943年12月 崔先吉と婚約
1920年生まれの文教祖は1940年で満二十歳ですが、ソウルの学校を卒業して留学手続きで実家(定州)に帰郷しています。
そして日本留学から帰国し1943年10月に再び定州の実家に帰郷し、すぐに母方の叔母から見合いを持ちかけられます。そしてその年の1943年12月には見合い相手(聖進の母親の崔先吉)と婚約します。
もういい年をした成人男子が、二十歳を過ぎても母親の乳を吸ったり、触ったりしていたわけです。
こんな異常なマザコン男と結婚したいですか?
ドラマも真っ青です。
私は遠慮します。
「二十歳を過ぎても母親の乳を吸っていた文教祖(2)」に続く
>そうするとおばあさんは、「しょうがないわね、ふふふ」と言いながら、喜んでいるのです。<
ばぁさんも異常じゃね?! そういう変態異常家族だったんだと今更ながら文鮮明一族を忍ぶ・・・。
「デマを言うな」という信者がいたらこの記事を教えてくださいね( ´艸`)
某国は子どもを産んで誇らしい服装がチチ出しスタイルであったのですから、もしかしたら当時は、チチ出しスタイルの女たちは誰かれなくチチを与えていたのかもしれないし、誰でも吸い付いたのかもしれない・・・。
あぁ~それも伝統、それも人間・・・。なんて国だぁ~!
付け加えます。
子が二十歳過ぎてるのに、「チチ」がでるはずないのです。
ただ吸い付きたい変態男が文鮮明であったという事でしょうね。
吸わせる母親も異常。
それにしても、自分の子どもの唇にも吸い付きたい衝動があるとは、異常な性癖です。
それを、自慢げに話す変態男なのです( ´艸`)
信者であった時は知りませんでした。
調べ始めて解ったのですが、他にもさまざま…性癖や信者への強要、母子協助の真実などなど・・・
秘密の玉手箱まだ明けて無い箱もあるのかもしれません。調べれば調べるほど呆れかえる文鮮明(文龍明)なのです。