文鮮明のパクリと嘘(27) のつづき

ここは重要なので、再度記事にします。

 

一緒に興南から南下した金元弼氏

 

この初期の弟子の大嘘、いや大嘘は文鮮明が言ったのか言わなかったのか?言わせたのか?

「私がこの人を背負って無事に渡れなければ、天宙復帰のみ業が成らない」こう初期の弟子が語ったということは、修練会でも写真とともに語られた内容。これが、大嘘だと分かれば、主の路程での南下の名場面が台無しとなるので、統一教会からは正式な訂正もなく、真実かのように語り継がれたのだと思う。

大嘘付き教祖の弟子も大嘘付きだったということでしょうね。

青地はナツミカンが入れたものです。 byナツミカン

 

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 そのときの雰囲気もあの写真とそっくりです。私はその写真を見て、神様がお父様を愛され、後世にそのときの状況を知らせるため、神様が国連軍の人を通して撮影したと見たいのです。あの写真は、それほどそっくりなのです。

写真とそっくりは大嘘です。

背負ってはいないし、凍っていたのですから、水の中を歩いたわけでもないそっくりそっくりと自己暗示にかけると同時に、信者にも暗示を掛ける幹部?

状況次第で常に答えを誤魔化し返答する・・・この組織に入ると「誠実」からは遠くなるのかもしれません。

 私がノルウェーに行ったとき、お父様が朴正華氏を背負われて南下されるとき

背負ってない!

渡られた龍媒島の海辺と同じような所があったので、そこに教会員を連れていってお父様の路程を説明したことがあります。

大嘘教えちゃダメ!

 あのときのことを思い出すと、渡ること自体が不可能なことでした。私も渡ったのですが、どのようにして渡ったか、私にも分からないのです。

昔のことでも覚えてるでしょう。氷の上を歩いて渡ったのですが、とぼけるのがうまいですね(笑)

ゆっくりと渡れば、足が海辺の砂のなかに沈んでしまうのです。

大嘘展開中!

 皆さんが自分の相対者を背負って、一キロほど歩いてみてください。どれほど大変なことか分かるでしょう。それも、固い大地を歩くのではなかったのです。また、お父様は二年八か月間、刑務所生活をして出てこられたばかりです。

だから~背負っていませんよ。

 それに、朴正華氏はお父様と同じように体重のある人であり、足が不自由でした。背負って歩けば重みで体が下に下がってきます。普通ならそのとき、下がってきた体を上に跳ね上げればいいのですが、足が悪いためそれもできないのです。ですから、そのような状態で海辺を渡るというのが、いかに大変だったか少しは理解できるかと思います。

すんごい妄想で語ってますね(笑)背負う必要なく氷の上を自転車に載せて渡ったのですよね。

 
お父様はこのときのことを、次のように語られたことがありました。

「私がこの人を背負って無事に渡れなければ、天宙復帰のみ業が成らない」

あははっ、これももちろん大嘘ですね。背負ってないのに想像と空想で捏造を語る教祖さま、口を開けば捏造が次々に出て来るのです。嘘の中にホントがあるのか?ホントの中に嘘があるのか?嘘を嘘で固めてあるのか?大嘘ばかり付いてるから、寄せ集めるとすんごい時間性のズレのある言葉もあります。

 

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統一教会HPで、金氏の証しを見つけました。

大嘘付きなのに、「うそはうそなのです」という矛盾に笑えます(ハハッ)

「うそはうそなのです」(金元弼先生の証しより) | familyforum

「うそはうそなのです」(金元弼先生の証しより)

  2012.11.16

 この証しは、2002年10月27日に新宿教会において、文鮮明師の第一弟子である金元弼(キム ウォンピル)先生が語られた内容を一部抜粋したものです。

 

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 「メシヤのためであるなら、あるいは大義があれば、何をやっても許される」という誤った考えを持っている食口(教会員)はいないでしょうか? 

 「国のためであれば、個人を苦しめることもありうる」とか、あるいは、「み旨のためであれば、サタンの物は奪って来ても許される」と、考えている人はいないでしょうか? 

 

 「3倍以上、返してあげなければいけない」という真のお父様(文鮮明師)のみ言を、よく考えてみてください。 

 

 うそはうそであり、どろぼうはどろぼうです。ただそれが、戦争などの状況下にあっては、一時的に許される、同情されうる、ということは、ありうるかもしれません。でも、「間違ったことは間違ったことである」と、はっきり知らなければなりません。 

 

 聖書の中にも、うそをついて奪って来た例があります。「サタンがうそをついて奪って行ったので、『蕩減復帰』の原則により、神側もうそをついて奪って来ても、罪にならない」と考えて、行動を正当化する人が、もし、いたとしましょう。 

 しかし、それは、うそはうそなのです。ヤコブの時も、うそをつかなかったとするならば、21年の苦役路程はなかったかもしれないのです。 

 

 戦時下で生命が懸かっている時に、人のいない家からお米を持って来ることは、状況的に考えて許されるとしても、それがそのまま善であるとは言えません。それ自体が善なる行為であると言うことはできないのです。それを私たちは、真のお父様のこのみ言と行動を通して、はっきりと理解しておく必要があります。 

 「あなたがやったことは赦され、同情されるかもしれない。しかし、善ではない」ということです。ですから、後でこれを3倍以上、返すことによって償うこととなるのです。 

 

 このような出来事を通して、私たちは本当に真のお父様の伝統を学んでいかなければならないということを感ずるのです。

 

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大嘘付きの大先生文鮮明の伝統を学ぶと「嘘つき」が伝統となるらしいです(笑)byナツミカン