幻滅した原理学生からの手紙①

暗在さんの記事より一部転載
 
これこれ。1966年出版の『原理講論』のことだと思います。
ここはまだ龍明小説に書いてない部分です。 
金永雲元教授とナントカという名前(失念)の東洋哲学専門の男性教授が執筆を手伝ったとは聞いていた。
その教授は数年後に脱会したとのこと。

「劉孝元が指導した委員会」ですか〜、モノは言いようというか、斬新な切り口、新鮮な視点です。
ちゃぬブログでは、
https://ameblo.jp/chanu1/entry-11038524083.html
 原理原本 1952年5月10日 文鮮明が金百文の講義を聞いて書いた
 原理解説 1957年8月15日 劉孝元が原理原本を体系化した
 原理講論 1966年5月1日  劉孝元、文鮮明、柳文化部長の合同作品
となっていました。
頌栄詩人の柳文化部長も、原理執筆委員会のメンバーだったのでしょう。

「興味深い混合物になっています」
そうなんですよねえ。それを持って、アメリカや日本の伝道が本格的になっていったわけですから。

原理講論にちりばめられた知識はどこから来たか? 劉孝元氏のソウル大学医学部の教養課程からか、イエス教会の幹部たちが当時、日本の関西学院大学神学部に留学したので、そこから流れてきたものか? 西洋思想は西洋宣教師の神学校in朝鮮からか? う〜ん、どれも弱い、と思っていましたが、教会内に教授たちの委員会があり直接そこからだとすれば、スッキリします。

トリビアですが、日韓併合時代、朝鮮の異端の人達が関西学院大学神学部に大勢入学していることを問題にした当大学の研究報告書によると、最初1人の異端を聴講生として受け入れたところ、そこから紹介、紹介で、あれよあれよという間に朝鮮異端のグループが大挙して正規の学部に入学することになってしまった、当時は現役生の紹介があれば受け入れるという暗黙のルールがあったので、阻止できなかったということでした。

日本はいつも同じことをやられているようですね。
金永雲、李龍道の実弟、韓俊明などが留学しました。
無駄な知識でした。
 
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>「原理原本 1952年5月10日 文鮮明が金百文の講義を聞いて書いた」は間違い。
↑文鮮明は聞いて書いた!すらしてない。ネットの中に暴露されていたのは・・・

■原理はかなりの部分、金百文からの盗作という事。これは反対派の本にも古くから書いてありましたが、かなりのレベルのk国幹部が言っているという事が重要。オンピルも言っている事。実際、金百文から本を借りてきたのはオンピルだったらしい。今後、金百文原本を翻訳して暴露するとのこと。

『文鮮明は金百文が 1952年釜山東来で避難中に執筆した原稿『堕落、復帰原理』を見て、「原稿校正を見て差し上げる」と持って行って6ヶ月以上持って来ない騒動を起こしたりした。』
http://www.amennews.com/news/articleView.html?idxno=8687


上記の内容は、1945年当時、文教祖と同じイスラエル修道院上道洞集会所に通っていたイム・ナムスン女史の証言です。

文教祖は、昔の師匠である金百文氏からパクッてまで、教祖(自称メシア)になりたかったのでしょうね。

教会の公式発表では、原理原本の執筆は「1951年5月11日~1952年5月10日」になっています。
執筆場所はボンネッコルのみで行ったと思われがちですが、実は何箇所も場所を変えて執筆されました。
<初凉の労動者収容所 ⇒ 釜山市槐亭洞の金元徳氏の家 ⇒ ボンネッコルの張屋 ⇒ ボンネッコルの土壁の家>
それに1952年に金百文氏から原稿を借りて、6ヶ月間返さなかったというのも、原理原本の執筆期間と辻褄が合います。

イエスラエル修道院時代の文教祖についてイム・ナムスン女史はこのように証言しています。

『修道院を始めてから2ヶ月程過ぎた時、文龍明(現 文鮮明に改名する)という 20代半ば(25歳)の一青年が訪ねて来た。上道洞集会所ができたが、看板は「耶蘇教イスラエル修道院ソウル教会」として付け、文鮮明が自分の家で新婚暮しをしていたと言うイム・ナムスン女史は当時16歳であった。上道洞集会所には40~50人くらいが集まったが、文鮮明は集会期間中で足で聖殿(礼拝堂)の壁を蹴飛ばして、痛いと泣きわめいて寝転んで騒ぎ立てていると、初園・金百文が近付いて「聖霊感化を人格的に受けて自分を治めなくてはならない。自分の身一つもコントロールできずに他人に迷惑をかけるのは真の信徒ではなく、真の信仰者になれない」と責望をした。また文鮮明は金百文が 1952年釜山東来で避難中に執筆した原稿『堕落、復帰原理』を見て、

「原稿校正を見て差し上げる」と持って行って6ヶ月以上持って来ない騒動を起こしたりした。』

http://www.amennews.com/news/articleView.html?idxno=8687

かなり問題児だったようです。
文教祖の話では「イスラエル修道院ではみんなから一目置かれていて、金百文からソロモンの祝福を受けるにまで至った」はずなのですが、かなり違います(笑)

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パクリ本まで弟子に書かせたから・・・どこかのコメントで信者が質問した創造原理に対して、文鮮明は「わからないしらない・・・」という答えだったようだ。だよね~自分でパクリ本を写したわけじゃ~ないしね(爆笑)

博物館にある原理原本の中身は絶対見せられない代物です。だって~だって~表紙は文鮮明が書いたかもしれないけど、中身は弟子が書いたわけだから見せられんのです(これまた爆笑もんです)

 

 


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祝福行事の一環で、「蕩減棒儀式」というのがありますが、文鮮明は朝鮮に昔からあった拷問の刑を取り入れたのでした。

思い切り尻を三回叩くというものなのですが、骨にヒビが入った信者もいるくらいの拷問行事をさせたのです。

振り返ると・・・とにかく様々な拷問のような条件とすることがあり、それを失敗したら三倍蕩減とかって言って、信者を牛耳り、その恐怖で操っている部分もあったように思います。どんな蕩減条件を立たせられるか分からないというのは、恐怖でしかありませんでした。

Bフンジンが来た時には二週間断食を言い放った部署もあったようで、当時本部にいた信者が暴露していましたが、その断食でふたり信者が亡くなったようです。そのような悲劇は、地方のヒラ信者には伝えられていませんでした。

 

韓国ドラマ「100日の郎君様」豆知識:ホンシムのお尻ペンペンの罰とその他の刑罰・拷問 - ナビコン・ニュース (navicon.jp)

第3話冒頭でホンシム(ナム・ジヒョン扮)は、「適齢期を過ぎた男女は結婚せよ!」という世子の出したとんでもない命令に従わないことで、役所、公衆の面前で板の上でうつぶせにされて棒でおしりをペンペンぶたれた。そんなホンシムは婚約者の登場で助かるが、婚約者ウォンドク=記憶をなくしたユル(ド・ギョンス扮)は、歩くこともつらそうなホンシムに手を貸そうともしない。どうやら記憶を失くしても不機嫌で意地悪なところはそのまま。とまれ、このコミカルなお尻ペンペンの刑は朝鮮時代に実際にあった刑罰なのだ

刑罰ここにうつぶせになってお尻ぺんぺん
尻たたきの刑罰 (chu.jp)

尻たたきの刑罰

 
尻たたきの刑罰

朝鮮の刑罰規定で日本と異なるものに笞刑
(むち打ちの刑)が あります。

日本では大和時代の律令制度の時は笞刑が
ありました。

日韓併合後も朝鮮特有の刑罰として継続され
ましたが 3代目の 斉藤實総督の時に残酷な
刑罰 だとして廃止になりました。
記録によると杖で尻を叩くと10回くらいまでは泣き叫ぶけどそれ以上になると麻痺して
黙るそうです。刑が終わると1月程度はまったく動く事ができず。糞尿を垂れ流すレベルの
寝たきりになるそうです。

しかし骨には影響がないので3月を過ぎると歩けるようになり、半年経過すると通常と
変わらないように動けるそうです。

朝鮮時代は賄賂で叩く数を買えるので郡守は金持ちを捕まえることで財をなすのが
通常だったそうです。尻たたきの刑罰

釜山の総合展示場(BIXCO)で開かれた韓国の
各地の観光案内の綜合展がありました。
昔の道具や玩具・衣服・習慣などの紹介が
あり、そこにこの刑罰の道具も出ていました。

笞刑の道具を利用して自由に尻を叩くところを
試したり、記念撮影できるようになっています。
多くの親子が並んでいました。
尻たたきの刑罰

ソウルでもこの刑罰の道具が人気だったと
韓国の 新聞に写真が出たのを見たことが
あります。

日本でこのような道具を出したら企画担当者や
主催者が非難されることが予想されます。

 

これが日韓の文化の差なのでしょう。

(2007/05撮影)