(朴正華著「野録・統一教会史」 意訳:ちゃぬ)注目

 


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■文鮮明教祖と一緒に南下した朴正華氏とは

$ちゃぬの韓国日記
(噓だった韓国動乱勃発時の避難の写真)

朴正華氏から直接、その当時の証を聞いたという信者(信仰歴30年以上)の方からメールをいただきました。
実際、文教祖が朴正華氏を背負って渡ったのは「海」なのですが、信仰歴の長い方でも「川」を渡ったと思っています。
文教祖はみ言葉でも「海を渡った」と言っているのに、その写真を撮ったカメラマンの説明に「避難民が川を渡っている」という説明があったため、意図的に教会幹部が「偽写真」に合わせて「川を渡った」と話すを摩り替えて信者に伝えていたのでしょう。

2011年10月28日のメール
『日本で昔修練会で亡き朴正華氏の文師に背負われて川を下った時の本人から聞いた話を少しします。
私は前から2番め真ん中でしたので、よく聞こえました。話はだいたいみんなが聞いている内容でしたが、あの時一度も資料を参考にしなかったということです。
水を飲むため湯のみ、やかんを持っていたため本当に荷物が重かったという。そこで、その時川くだりの写真で、やかんを見つけようと探したのです。きっと反対側にあるのだろうと思ってましたが、どうもあの写真よりかなりの物を持ってた感じです。他の人が資料の中から質問したが、そんなものあてにならない見たいな事、そして文師の学生の時の写真も修正してあるよ。といって聞こえた前の席はざわざわしたのです。李ヨハネ先生も修練会のきていて何かよけいなことをいわないよう目を光らせてたかもしれません。』


2011年11月3日のメール
『正華氏と文師は川を渡り終えてすぐ食事の用意をしたそうです。もちろん文師は疲れているので正華氏が。水、 火、 米、 鍋、(たぶんヘルメット兼用) そして野宿するための寝具(雨よけなど) さすが元軍人 準備と手際のよさを感じました。このように、やかん含めてかさばる様なものもあったという事です。
講義の終りのほうでそのざわざわした後のことです。証しからガラっと人生教訓みたいなものに変わり、何かふくんでしたのですが今思い出しません。これが以外と長かったものですから李先生がチェックに寄られたので皆そちらを向いたのです。講義の後もちろん進行係りに写真と資料のことを参加していた人が聞いてました。確認するといっていき、後で戻ってきたとき、周りの人をつかまえてなんて答えたのか聞きました。確認したという事と資料は世界日報が作ったものとその時聞きました。こういうものは新聞社が作るのかと思ったのです。』


2011年11月9日のメール
朴正華氏はコネで北の共産党員から危ないことを早くに知らされていたと言います。が足が悪くて遅くなり、困っていたところで文師が現れたそうです。なので準備はしっかりしてたらしい。このように北の情報があるので無事に川を期間内に渡れたことは神がかりではなく、ただ知っていたことですから。』

韓国動乱勃発は1950年6月25日でした。
日本が敗戦してすぐにソ連南下とともに北側は共産党が統治して1948年には北朝鮮が独立を宣言し、同じく1948年8月13日には韓国側も独立を宣言します。

しかし文教祖は共産党政権下であってもわざわざ1946年に北朝鮮に布教に行っています。もしこれが日本人であればどうなっていたでしょう。

<日本人民間人は、北朝鮮で朝鮮人に10万人ぐらい殺された>
>ひとすじに行くさん

あなたは、自分の知らないことは、存在しなかったと言う思考で、大変、傲慢な人間です。
これは、ぼくが本家の叔父に聞いた話ですが、本家の叔父は、戦争中、終戦まで、8年間、陸軍の兵隊で、朝鮮とソ連の国境、「豆満江 国境守備隊」にいたそうです。

そして、終戦後、ソ連軍の捕虜となり、かつて、文鮮明も収容されていた、有名な、興南の朝鮮窒素工場に収容されていたそうです。

その工場の周辺に宿舎があって、宿舎から工場へ行く道端には、朝鮮人に殺された、日本人民間人の死体が山のようにあったそうです。

38度線、以北は、ソ連軍が占領し、日本軍人は、戦争協定で、殺されませんでしたが、日本人民間人は、北朝鮮で朝鮮人に10万人ぐらい殺されたそうです。

南朝鮮は、米軍の管理下で、日本人民間人は、朝鮮人に殺されずに済んだそうです。
(ようのブログ2011年10月29日記事http://ameblo.jp/yoji1970/entry-11062143953.html


文教祖は爆弾が落ちて命を落とすことはあったとしても、北朝鮮に殺される可能性は日本人よりかなり低かったといえます。




■統一教会の文鮮明教祖が逮捕された理由とは

日本の民間人が逃げ遅れて殺されている者もいるなか、文教祖は命の危険というよりは社会秩序を乱す罪(社会秩序紊乱罪)で逮捕され興南刑務所に送られましたがすぐ殺されることもありませんでした。

文教祖が北に行ったときになぜか布教のはずが、よく文教祖の叔母の家に隠れています。つまり逃げ回っていたのです。その当時、共産党統治下とはいえキリスト教の信者すべてが刑務所に入ったわけではありませんでした。しかししょっちゅう文教祖は逃げ回っているのです。

<北朝鮮で逮捕された経歴(教会発表)>
1946年8月16日 大同保安署(李承晩のスパイ容疑で逮捕、拷問)
1948年2月22日 内務省に拘束(社会秩序紊乱罪で逮捕。興南刑務所にて重労働2年ヶ月)

としていますが、1948年の逮捕は人妻である金鍾和との婚姻祭(結婚)事件で夫の告訴により逮捕されています。

「天の宴(婚姻式)」をするために信者はいろいろ準備しますが、その合間合間、文教祖は警察の目を恐れてか叔母の家に身を隠しています。

先生は叔母さんの家に行っておられてから、その年の春、再び集会所に来られました。私は朝、集会所に行って先生にお会いしました。先生は、「少しいてから行く」と言われて、出ていかれる途中で立ち止まられて、「来たついでに昼食を食べていかなければならない」とおっしゃり、また戻ってこられてみ言を語られました。
 家の主人が昼食を準備してきたので、食事をしようとしたのですが突然、金仁珠さんの両親が急に入ってきて、「たちの悪い奴だ。私たちの甥の家に来て飯を食うのか!」と言いながら、先生の髪の毛をわしづかみにして振り回したのです。止めても言うことを聞かないので、横にいた数人の女性食口たちが手にかみついて引き離し、追い出しました。
 先生はひどい侮辱を受けられながらも、何も言われずに、その後すぐに叔母さんの家に行かれました。そのときから、迫害はさらに激しくなり、先生は集会所にいらっしゃることができず、二十里くらい離れた叔母さんの家に行かれて隠れて過ごされました。
 先生の叔母さんの家の近所に、自ら「私は神様の夫人だ」と言う朴ウルリョンハルモニというかたがいらっしゃいました。そのかたが「先生と連結して何か天の宴をしなければならない」と言うので、先生は食口たちに「準備しなさい」と言われました。
(「一片丹心、み旨だけのために」 玉世賢の証)



「先生と連結して何か天の宴」とあいまいなことを言っていますが、天の宴とはいわゆる「セックス」です。このことを文教祖の弟子の朴正華氏は「野録・統一教会史」の中でこう記しています。(朴正華氏の著書では丁得恩ですが、信者の証では朴雲女とされています)

『平壌に来て、まず丁得恩(鄭得恩)という女性に会った。意気統合して話をしている間に、神が啓示を受けた平壌を第2のエルサレムとして作ることに合意し、協力することにした。この時、文先生は26歳、丁得恩(鄭得恩)は40歳ぐらいだった。・・・・・丁得恩(鄭得恩)は自分は主からの聖母として認めて頂いたので、文鮮明とセックスをすると、文鮮明は神と同格の立場になって堕落した夫婦の立場にある女性たちを復帰させることができるようになると聞いています。そして文鮮明が下になり、丁得恩(鄭得恩)は上に乗る(性行為)で蘇生、長成、完成の3回のセックスをしている。復帰の実践方式および方法は似て文鮮明の原理と同じだ。聖母マリアの代わりに聖なる丁得恩(鄭得恩)は復帰をしたもので、文鮮明は、完全な神のような、罪のない丁得恩(鄭得恩)は、夢の中で主とセックスをしているため、自分は聖母と言う。あまりにもすごい装飾の話ですが、文鮮明の右腕のような立場にあった当時の私はただ驚くだけで感動していた。
しかし、ここでもう一度、冷静に考えれば、「創造、堕落、復帰」の原理も完成していないときに、原理も知らずに、文鮮明とは初対面の丁得恩(鄭得恩)は到底考えることができないはずだ。
前後の事情から見て、二人が肉体関係があったようだが、どうしても後に強引に持ってきた不正な形式の話だと私は信じている。
その理由の一つは、平壌(ピョンヤン)に行った頃の文鮮明の行動が、原理を無視しためちゃくちゃなところがある。生活の安定のために必死だったのかは分からないが、当時の(後にもそうだが)、彼の武器は未完成の異様な原則論と、それにはまって寄り集まる女性たちのセックスの攻撃しかないのだろうか?百歩を譲って、もしそれが本当だったら、統一教会の印刷物は、どうしてこの丁得恩(鄭得恩)の奇跡のことを一行も書かないのだろうか?』
(朴正華著「野録・統一教会史」 意訳:ちゃぬ)



この自称「神の妻」の丁得恩(鄭得恩)ハルモニの話を文教祖はどのように語っているのでしょうか。

ヤハウェの夫人(神の夫人)という女性が現れて、初めて復帰歴史を成し遂げることができます。しかし、当事者は分かりません。その女性が蕩減復帰歴史をする際に、三分の二は神様の役事を、三分の一はサタンの役事をします。これを分別しなければなりません。これは純然と、知恵と忠孝の心、真理を追究する心で処理しなければなりません。』
(「南北統一」より)


『解放されたその年に、先生が南にいながらシオン派、新約的エデン復帰派である金百文集団に入って、六カ月の間そこにいました。大韓民国の神霊的な人々と全国にすべて、通じる所です。そこで「あるおばあさんが神様の夫人だと言っている」と言って、金百文一派が嘲弄するのです。私は、その話を聞くや否や、北側に行ったのです。
(真の御父母様の生涯路程2)


それで、「私は神様の夫人だ。」という者が現れてこなければなりません。そんなお母さんが出て来て、「この人こそ自分が侍ることができるメシヤだ。」と宣布、証言しなければなりません。そのような証言を得るためには、絶対服従しなければなりません。福を受けるためには、僕の僕の役をしなければならないのです。それでお母さんだと言っているその人に骨の髄から情が入って、その女性が自分の息子・娘を皆捨てて、自分の夫も全部捨てて、私に従うことができなければならないのです。そうすれば、ただ一人しかいない息子のように思って育てながら、「大きくなれば一国の大統領になる。」と祝福してくれるのです。その次に、世界祝福してくれて、「世界の大統領になり、その次に世界の王になる。」と言うのです。「あなたは再臨主になる。」と祝福してくれるその時までは、その女性に絶対に服従しなければなりません。 』
(祝福家庭子女修練会でのみ言葉 1984年7月10日)


文教祖は自称「神の妻」と名乗る女性の話を聞いていても立ってもいられず、妻子を置いて北に向かいました。
 
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弟子を自転車に乗せて南へ避難した文氏 (23)

 

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朴氏は、文鮮明に本当に背負われたのだろうか?

朴正華氏の内容で、文鮮明はとても朴氏を背負えるような状態ではなかったというようなことを記事にしたことがあるように思うのですが、記事が見つかりません。

背負ったのは金氏で自転車を押したのが文鮮明、歩くのがやっとだったのは文鮮明であり、朴氏の足が悪いというのは本当だとしても折れていたというのは違うのではないかと感じました。

とにかく、ホントのところの突合せだけでもしておかないと、後になるほど真実は見えなくなるので、気づいたときまた資料として保存しておこうと思います。確認したくても朴氏は故人です。

 

六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!

統一教会創始者 朴 正華(パク チョン ファ)