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転載加工あり。⑤までまとめてUPします。

 

文鮮明の嘘と日本の信者   223

 こんなこともあった。

 一九八三年のある日、統一協会の国際部から私に連絡があった。「ちょっと聞きたいことがあるので来てほしい」ということだった。

 行ってみると、『中央日報』(韓国の代表的日刊新聞)に載った写真を見せてくれた。「この写真知ってますか」と国際部長の安炳一が聞いてきた。その写真は、髪の毛の短い人が冬用の帽子をかぶり、何か荷物を背負っている人をおんぶして、ズボンを捲りあげて川を渡っている写真だった。

 「この写真は、文鮮明先生が朴さんを背負って、川を渡っている写真ではないですか」と安炳一は聞いてきた。私は、

 「その当時、写真を撮る余裕などなかったし、先生におんぶされて川を渡ったことはありません」

とはっきり答えた。すると国際部にいた職員たちも、さすがに何も言えなくて、この件はこれで終わったと私は思っていた。

 ところで、その翌年の五月、私は日本へ行くことになった。

 東京·渋谷の本部教会に案内されて行くと、一階の応接間に飾ってある「文鮮明先生の初期の歩み」という展示コーナーに、『中央日報』に載っていた写真を、壁の大きさに拡大したものが掲示されていた。日本の本部教会の幹部たちが集まってきて、その写真の前に私を立たせて、記念撮影をした。

 この写真について、彼らが私に説明してくれた。アメリカにいる文鮮明がこの写真を最初に見て、

 「これは、私が避難するときに、朴正華を背負って、真冬の寒いときに裸足で川を渡る場面である」

と話したそうだ。その張本人が来たというので、日本にいる食口たちが感激し、当時の話を聞かせてほしいと頼んできた。

 私は本当に困ってしまって、何と言えば良いかわからなかった。韓国の統一協会の国際部で言ったように、「こういう写真は撮影したことがない。文鮮明先生が私を背負って、裸足で川を渡ったことはない」と言ってしまえば、文鮮明が嘘をついたことになる。そうなれば、日本の食口たちは失望するに違いない。そう考えると私は、仕方なしに嘘をつくしかなかった。それで私は、「龍媒島にいたとき、青龍半島から帰ってくるときに、満ち潮になって仕方なく、先生におんぶされて渡った」と答えた。そして、

 「そのとき、十五、六人くらいの食口がついてきて、私たちの姿を撮影しておいた。李承晩大統領の夫人のフラソチェスカ女史が、動乱の写真を集めており、『中央日報』に提供したものだろう」と説明した。日本の食口たちは感激していたが、私は良心の呵責を感じ、とても苦しかった。

「私が朴を背負って川を渡っている所だ」 と文鮮明が嘘を言った写真


❖ 補足説明の追加

この写真はソウルの展覧会でも展示されました。 その際、このような説明文が添えられました:「中国の共産主義勢力から逃れるため、一部凍った漢江(忠州市)を渡る 韓国人の難民男性。背中には老いた父を背負う。写真撮影 : 1951年1月14 日、米軍伍長J.J.マギンティ。」


 

この写真がまた、一九八五年三月三十一日付『東亜日報』の「秘話六·二五=丁一権回想録」に掲載されたが、『中央日報』に載ったものより、もっとはっきりと見えた。その写真を見ると、映っているのが文鮮明と私でないことがはっきりとわかる。

 このように事実でないことを事実のように作り上げるのは、統一協会にとってはごく普通のことで、彼らが宣伝するときの常套手段である。

 

原理は金百文の盗用   226

 ソウルの本部へ通うようになってから、私は、創立当時に苦労した多くの食口たちに会う機会ができた。脱会した人も多いし、まだ中でがんばっている人もいた。年老いた婦人たちがもっとも気の毒だった。

 復帰原理を口実に、文鮮明に体をもてあそばれ、財産も家族も失って、生活に困る状況になってしまったその人たちは、文鮮明を恨み、こんな人生にした神様も悪いと嘆いていた。

 統一協会は、表向きは凄い勢いで拡張しているかのようだが、日本でもアメリカでも、金にまつわる醜聞がっきなかった。

 一九八四年の七月二十日、文鮮明は脱税の罪で、アメリカ·コネチカット州のダンベリー刑務所に収監された。一緒に収監されて五か月近く刑務所で文鮮明と生活した日本人の神山威(その後、日本統一協の会長に就任=九二年)は、「刑務所での文鮮明先生の態度は立派だった」などと発表したがそれは文鮮明が、刑務所に入るのが三回目であり、「もうすっかり慣れている」だけの話なのだ。

 興南では、平壌の女性だちとの乱脈な行為で、社会秩序紊乱罪。ソウルでは食口たちの偽証や、私たちが必死で動いた証拠隠滅のおかげで、無罪になったとはいえ、事実有根。本来なら長期刑になるところだった。

 アメリカの脱税事件の他にも、不動産取得をめぐる妙な噂も飛びかっている。一年余を獄中で過ごして、翌年の八月二十日に釈放されたが、この期に及んでも統一協会は、「文鮮明先生は無実だった」と叫んでいる。

 三十五万人ものアメリカの牧師に「統一原理」のビデオや本を贈呈したり、莫大な金を使って出所祝いするよりも、もっと足もとを照らした行動こそ、本当の原理ではないのか。

 しかも、統一協会が、宝のように大切にしている「創造·堕落·復帰の原理」は、文鮮明の発案ではないのだ。イエスラエル教会·金百文のもとへ崔先吉夫人と通っていた文鮮明が、金百文の論理をそのまま盗用したのである。

 うろ覚えで論理一貫しないまま、紙に鉛筆で書かれた文鮮明のメモを、私と劉孝敏が書き取って清書し、劉孝元が苦労して構成·執筆したものだ。統一協会の原理は、死んだ劉孝元が本当の著者であり、本来なら劉孝元こそ教祖である。その大恩ある劉孝元の優秀な頭脳と人格に嫉妬し

た文鮮明はその後、あらゆる手段で意地悪を重ね、ついには死に至らしめた事実もある(後述)。

 統一協会の原理は、文鮮明が金百文の論理を盗用して、劉孝元がまとめあげたもの、と私が指摘する根拠は、金百文の著作『精神神学』『根本原理』を読めば一目瞭然である。

 

兄妹結婚の疑惑   228

 忘れられないことがある。あるとき、釜山にいる宋秉昊の家族が突然、私に電話してきて、「釜山の大学病院に宋社長が入院中で、朴さんにぜひ会いたい、と言っている。宋社長は危篤状態です」

と言う。私はすぐに飛んでいきたかったが、そのときは私も病気で、身動きができない状態だった。だから、

 「もう少し待ってください。病気が治ったらすぐに飛んでいきますから」

と話しだのだが、あとで、その三日後に亡くなったという消息を聞いた。この亡くなった宋社長が生前、何回か私に文鮮明について話したことがあった。

 「文鮮明が妻の鶴子以外の女に生ませた息子と幹部の娘が結婚したが、これは兄妹結婚ではないか? その幹部夫妻は、十六~七と歳の差が大きくてとても結婚の相手にはならないのに、三十六家庭(後述)の一つになった。実はそのとき、妻の方は文鮮明との復帰で妊娠していた。その

当時は適当な食口がいなかったので、金永姫*とか李聖礼*のときのように頼める人がいなかった。そこで仕方なく、元幹部に預け、文鮮明が妊娠させた女食口と結婚させることにしたのだろう。文鮮明の子どもであるその息子と、幹部とその妻の二人の間に生まれたとされてはいるが、実は文鮮明の子どもである娘が結婚するのは、兄妹結婚に間違いない」

 韓国の習慣上、兄妹結婚というのはとんでもないことで、あってはならないことだ。私は一所懸命、「そうじゃない。何かの間違いだろう」と彼を納得させようとした。

文興進の墓参りをする日本の食口たち (ソウル郊外)

 

 この宋社長は、釜山で私が文鮮明を紹介して、食口になった。ソウルの延禧専門学校(現在の延世大学)出身で、とても親しくしていた。釜山の税関課長を辞めてから、通関事務所を創立した社長だった。

 統一協会がいよいよ『原理解説』を出版することになったとき、私が頼んで五十万ウォンの資金を出してもらったこともある。

 最初のうちはとても熱心な食口で、ずいぷんと献金していたが、

 「文鮮明という男の正体を見た。自分は失望した」

と怒って、脱会してしまったが、その後も文鮮明のことを追究していた。

 その宋社長が、自信をもって「事実だ」と言う以上は、反論もできなかった。

 また当時は鉱山にいて、三十六家庭の経過を知らなかった私には、また反論の材料もなかった。

 

原理を実践した金徳振   230

 文鮮明と統一協会の復帰問題で、どうしても書き遺しておかなければならないのは、前にも触れた金徳振の問題である。

 捿鎮鉱山の時代、趙東錫がソウルから金徳振を連れて大邱に来た。連絡があったので私が大邱に行くと、文鮮明から、

「金徳振はソウルで問題が多いので、鉱山にいる朴正華の所へ連れていきなさい」

と言われたので、連れてきたという。

 金徳振は本来、音楽に才能のある芸術家として、素直な性格を持った人たった。私は金徳振と一緒に鉱山へ戻ったが、どういうわけでこうなったのか、彼に聞いた。すると彼は、

「文鮮明の原理を聞いて、文鮮明から復帰を受けた女から、自分も復帰を受けた。そして自分も、他の女の人に復帰してあげることになったが、それは原理どおりに実践しただけだ」

と言った。文鮮明から復帰を受けた劉信姫から、金徳振は原理どおり三回にわたって復帰を受けたそうだ。

 その劉信姫から復帰を受けた彼は、鍾路五街の厳順泰の家で五人の女たちを復帰させた。その女たちがまた、違う男たちを復帰させ、わずか一週間のうちに、七十数名の男女が復帰儀式に参加することになった。

 こういうやり方で、だんだん広まっていったところ、復帰という男女のセックスの噂が、協会長の劉孝元や文鮮明の耳に入った。その結果、問題の金徳振を、捿鎮鉱山の私の所へ追放して、二度とソウルへ現われないようにすることを、決定したということだった。

 鉱山へ来た金徳振は、鉱山のトンネルの中には入ろうともしなかった。部屋に一人でこもって、ただひたすら原理にもとづいた作詞や作曲をしていた。

 私は金徳振に最初、「何があったのか正直に話してほしい」と聞いた。すると「私は原理どおりに実践しただけです」と彼は言った。そのとき私は、

「たしかにあなたは原理どおりに実践したのだから、あなたには何の間違いもないと思う」

と私は話した。それから約二年間、私は彼と一緒に過ごした。

 金徳振は文鮮明からの送金が途絶えて、食う物もなくなったとき、またソウルの方へ行き、復帰の実践を再びやり始めた。劉孝元が私に連絡してきたので、私はソウルに行き、復帰の実践をしていた金徳振を大邱に連れていって、現在の奥さんと結婚させるようにしたのである。

 考えてみれば、金徳振は原理どおりに実践しただけだ。何が悪かったのだろうか?

 文鮮明は原理の説教をして、数えられないほどの家庭を破壊したが、金徳振も文鮮明の原理どおりに実践しただけである。その人を山奥の鉱山に閉じ込めて、ソウルに二度と現われないようにする、ということが理解できない。

 金徳振を私に預けるということは、彼を殺してしまえ、という意味なのだろうか。どうしても納得できなかった。

 しかし、そのときの私にはどうすることもできなかった。