劉氏は医者だっっって!聞いてたぞぉ~かよ!(それともワタシの思い込み?)

文鮮明早稲田大学卒業ってウソと同じか。

スッカリバレてるのに、葬式の時の経歴は、早稲田大学卒業だった(呆)

家庭連合が腐ったのは「相対基準を結ばない」からだ!重要追記あり 


米本さん記事のコメントより

 

劣化した「相対基準」解釈

>文鮮明氏の発言を含め統一教会の教義にそんなことが書かれているかどうか知らないが、組織を腐らせた原因の1つといっていいだろう。
「相対基準を結ばない」。最初は何のことか分からなかったが、要するに学校でのイジメに通じる「相手にしない」「シカトする」。

 米本さんが書かれたように、確かに統一教会系信者は「相対基準を結ばない」という言葉を使うことがありますが、それは経典である原理講論に出てくる統一原理用語を正しく使った表現ではないことを理解しておく必要があります。
 原理講論は文教祖の説教=「み言葉」と違って、知的な表現を用いて統一原理について論じていますが、
筆者の劉孝元氏は大学で医学を学んでいるとは言え、学生時代に精神不安定になって統一教会の信者となった人物であり、医師の資格も取っておらず、その精神的な不安定さは原理講論の文章にも表れています。
 原理講論は文字を丁寧に追って読めばわかりますが、論理的に不整合な部分が多く、決して学問的に価値がある書物ではなく、一つの歪んだ宗教的な主観を述べたものに過ぎません。
 その内容には非科学的な部分、現実と異なる部分が所々にあり、突っ込みどころ満載と言ってもいいぐらいです。
 ただ、劉孝元氏は米本さんが馬鹿だと呆れているような統一信者よりは頭脳が優れているため、原理講論に関しては知的な言葉を使って文章を書いています。
 「相対基準」という用語もその知的な言葉の一つですが、一般人には馴染みづらい言葉であり、米本さんに理解してもらうためには多くの説明が必要です。
 「相対基準」が原理講論において最初に表れるのは「創造原理」においてであり、以下が「相対基準」が初めて登場する文章です。

「あらゆる存在を造っている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、よく授けよく受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、即ち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。」
<第一章創造原理 第二節/(二)授受作用-より引用>

 上の文章にある「万有原力」とは(原理講論によれば)神が永遠に自存するための根本的な力であり、絶対的な力とされていますから、「相対基準」とは神の力によって生まれるものであり、人間を含めたあらゆる存在が授受作用(=相互作用、相互交流)を行うことを可能にする‘共通の性質、傾向’を意味するものとして捉えることができます。
 「創造原理」においては「授受作用」をあらゆる存在において必要不可欠なものとして捉えており、それなくしてこの世に存在するものは「生存と繁殖と作用」などができないのです。
 その「原理」を人間世界に当てはめれば、人間が持つ「共通の性質、傾向としての社会性、発展志向」などは神の力によって生み出された「相対基準」なのであり、その神によって結ばれた「相対基準」のもと「授受作用」を発展的に行ってこそ、初めて人間個人や社会の発展が可能となるのです。
 つまり「相対基準」とは「創造原理」によれば、人間が生み出すものではなく、神の根本的な力によって生み出されるものであり、必然的にそこから人間の「授受作用」を展開させる条件となるものなのです。
 そのような内容が「創造原理」が述べるところの「相対基準」の意味であり、そのようになっていない実態があるとするならば、それは「原理」に反する力が働いているということなのです。
 「堕落論」に出てくる「サタン」は神ではないので「相対基準」を生み出すことはできず、「原理」を破壊することはできません。
 「原理」に反する行為を行えるのは自由意志を持った人間だけであり、人間が本質として持っている良心に逆らおうとするならば、人間は「原理」に逆行することも可能であり、停滞を意味する自己保身のために「授受作用」を拒むこともあり得るのです。

 「創造原理」の中で述べられている「相対基準」は言葉が一般人には馴染みづらいとは言え、それほど見当違いの言葉ではなく、その言葉を使った文章もそれほど酷いものではありません。
 問題は「堕落論」であり、「堕落論」の中においては「相対基準」を「創造原理」とは一致しない意味で使っており、‘共通の感情、願望’を意味するような言葉として使っています。
<第二章堕落論 第二節/(二)/(1)霊的堕落-より引用>
「…このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが、互いに相対基準を造り、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼等をして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。」 

 原理講論の「創造原理」と「堕落論」では統一原理の重要な用語であっても、それぞれにおいてニュアンスの異なる意味を表す言葉としてそれが使われる場合があり、そのような食い違いが多くあるため、原理講論は同じ筆者が書いたものとは思えないほどです。
 もっとも、原理講論は文教祖が書いたとされる「原理原本」を参考にして劉孝元氏が新たに書いたものであり、劉孝元氏は文教祖から命じられて、経典として原理講論を書いたのであり、文教祖の「原理原本」に矛盾が多ければ、それを経典として書き直しただけの原理講論の文章にチグハグなことが書いてあったとしても仕方ないことではあります。
 ですので、原理講論にある論理的に一貫しない文章表現については全て劉孝元氏の責任とは言えません。

 「相対基準を結ばない」という言葉の使い方や、そのような考え方は完全に「創造原理」に書かれた「原理」に反しており、そのような言葉や考えが頭にある人は「創造原理」を全く理解していないことになります。
 しかし実際の統一教会系信者は頭が劣化して非科学的な妄想である「堕落論」を信じており、「創造原理」などは頭から消え去っています。
 そのように頭も劣化し、良心も衰退した統一信者であれば、米本さんと「相対基準を結ばない」ことになったとしても不思議ではなく、自分の馬鹿さ加減を悟れるようになるまでは、誰もその状態から救い出すことはできません。
 
  • [2019/04/17 13:21]
  • URL |
  • 神々の黄昏
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神々の黄昏氏は、平信者が知らないことを盛りだくさん秘めていそうだ。

 

6500双姉妹の韓国ヤクザに拉致され子宮を切り取られ・・・、必死に逃げ帰った信者の話も詳しく知っていそうだ・・・。もうひとり拉致された姉妹はどうなったの?他にも行方不明の姉妹がいるのではないですか?

 

「再臨論」では「地上天国」をつくられ!とあり、「そこで」ということが前提の「メシヤ」

神々の黄昏氏は、再臨論をどう考えてるのでしょうね?原理なんてこと自体、昔から語り継がれてきたごく当たり前の事・・・。朝鮮混淫教流れの組織が、原理なんて論じる以前に、その現実はヒドイ乱れ方で信者を喰いものにしていることは、これまたどう解釈するのでしょうね・・・。

ワタシの記事じゃ~答えてもらえそうにありませんが、古参信者にしつこく聞いてみたいで~す。