http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/8586/kakorogu4.html

一部転載。全文はURLに飛んでお読みください


文師入院? 投稿者:モーリス 投稿日:2003/04/29(Tue) 02:14 No.2687

文鮮明氏が3月中旬に米国で入院して5月25日に鮮文大学で行われる4億双4次祝福式にも参加できないと噂されているそうですが本当なのでしょうか。
私も昔食口で、文氏の過去を調べています。過去にも掲示板に乗せたことがありますが、忙しくて失礼しております。I氏の下に居たこともありましたっけ。金銭的な被害も受けました。
時間ができたらと思っていましたが、文師がお亡くなりになる前
に私が調査した幾つかの問題について書込みができればと思っております。なお、文氏の病状についてはまったく不明です。

Re: 文師入院? カインの末裔 - 2003/04/30(Wed) 00:23 No.2697

モーリスさん、文師が、4月の儀式に、参加しなかったのは、事実で、インフルエンザで、入院していたと聞いています。
ただ、5月25日には、参加できると聞いているのですが、注目されるところです。参加できないというのは、献金集めのための噂かもしれませんよ。
I氏とは、石+元会長ですか?
 ぜひ、調査した内容を書き込んで下さい。私の調査した内容と照合できれば、より真実が、わかると思います。

Re: 文師入院? モーリス - 2003/04/30(Wed) 03:53 No.2700

カインの末裔様
ありがとうございます。インフルエンザですか。新型肺炎でもないのでしょうが・・・。(新型肺炎だと又人類の蕩減をなんて話になるのでしょうかね)ただ、2月の儀式の時も式典に参加した外部の人になるべく発言させないようにしていたという話もあるものですから。考えてみれば83歳なんですね。2月の儀式だって組織の締め付けなんでしょうが、多分「文師以後」の摂理になっていくターニングポイントだったのではないでしょうか。
>I氏とは、石+元会長ですか?
いえいえ、この掲示板でも話題になった原研出身の方ですよ。かの有名な「身体障害者トーク」や「うずくまりトーク」をもって「原研の後には草1本ない」とまで言われた
万物復帰を展開したお方です。この人はある面統一協会の
典型的人物でしょう。私もその場に居ましたが、ある食口
が悩んで「信仰とは」と彼に聞いたところ「度胸とハッタ
リだ」と答えたにはまいりましたが、存外統一信仰の本筋
を言い当てているのかもしれません。
文師に喰いつくために、文師留学生時代のお世話した下宿
のおばさん(三橋氏)にずいぶん接触していました。とこ
ろが万物復帰の促進のために修練会や和動会で霊媒師に三
橋さんの亡くなったお嬢さん(協会内では、文師のことを
密かに慕っていたが、文師を装った男に騙されて過ちを犯
して、後になって分かって自殺した。これを見て文師は「
堕落論」を解き明かした云々ということになっていました
っけ)の霊なるものを呼び寄せ「私は文先生を慕っていま
した。」なんてなことを言わせていました。これには後日
談があり、この話を聴いた三橋のおばさんが「大体文先生
と娘が接触する機会はほとんどなかったし、そんなふしだ
らな娘ではない。また病気(チフス)で死んだのに。」と
カンカンに怒ってしばらく彼と関係が疎遠になったことも
ありました。(霊媒師のお告げやI氏の声が入ったテープ
を三橋のおばさんに聞かせたのは他ならぬ私でしたので。
なお、これはI氏が云々ということではなく、文師の過去
について伺っている最中に確認のためにお聞かせした次第
だったのですが)
副島さんと共に協会を脱出した私の友人がある時に渋谷駅
頭でI氏と遭遇してしまったことがありました。なにせ、
世界日報事件及びその前の協会本部礼拝堂における襲撃事
件で中心的に活躍したI氏のことですから、友人が身構え
たのも頷ける話なのですが、I氏曰く「お前らいいよな!
社会に出て就職できてるんだろう。」とのことだったそう
です。
文師の路程の調査については少しずつでも書いていこうか
と考えています。
なお、2番目の夫人のことについて書込みされていた方が
ありましたが、その関係者の手記なるものを読んだ記憶が
あります。多分コピーしていたと思いますが・・・。
その中で文師は滞日中の第2夫人に何らの援助もしておら
ず、ある日本の宗教家のお世話で暮らしやお産ができたこ
とになっています。

もうひとつ、カインの末裔様、最初の(というのも奇妙な
話ですが)長男でいらっしゃる聖進様(金東淑様の件が話
題になっていましたが)がどうしていらっしゃるかご存知
ではないでしょうか。昔少しながらお会いしたことがあり
とても懐かしく覚えているものですから・・・。

聖進様 矢が咲き弓が後 - 2003/04/30(Wed) 12:44 No.2701


大学時代お世話していたからよくわかります。
親父に強制的に結婚させられ愛して子供まで生んだ我妻が、実は、異母妹だった時のショックは、一生ぬぐえないといっていました。
自分の子供まで犠牲にして、何の救いですか。


Re: 文師入院? モーリス - 2003/04/30(Wed) 13:36 No.2702


矢が咲き弓が後様、こんにちわ。
お名前と「大学時代お世話していたからよくわかります。」
である関係の方を連想するのですが・・・。
ただ、お世話されていた時期がいつなのでしょうか。私の
場合、もう四半世紀ぐらい前の話になりますので。
「親父に強制的に結婚させられ愛して子供まで生んだ我妻が、実は、異母妹だった時のショックは、一生ぬぐえないといっていました。」とのこと。そこまで詳しいお話はできま
せんでしたが、「外で働くと稼ぎは幾らくらいになるのか」
とか「どのような資格や免許が有効なのか」と聞かれたので協会で養われていることからの脱却を試みられておられたのでしょうか。
その時期に誉進さん達第3夫人のお子さんとお会いになって
「仲良くされている」と馬鹿な幹部どもが喜んでいましたが、その胸中は無論相当に複雑だったと推察します。
「御子女様」と持て囃される第3夫人の子女達とは異なり、幼いときから父親に捨てられ、母親はいなくなるといった境遇だったこともあるのでしょうか、目立たないように振舞われ、「お世話になった」と慰労してくださった姿が忘れられません。第3夫人の子供達だって結局犠牲にしかならなかった訳ですが・・・。


蘇れ金狼 矢が咲き弓が後 - 2003/05/02(Fri) 04:13 No.2717

むかしむかしあるところにおうさまがいました。減李どおり歩まれている王様は、泣く泣く、ダラクした花子と真の太郎が決闘を交え、その復木された花子が、天狗長の立場の一弟子で人類の代表の謹XXpill氏に与えそれを彼が汚さなかったことに勝利し、実子であるがサタン世界の戸籍では他人の現在のない子女を、自らの天の直系である長男と交わらせることによって、完全な積みのない人類を生み出しそうという、二重の念のいった決闘展観をして、何人足りとも歩めない苦難の道を歩まれたのです。これを、この世的に見ると、手がついた女性従者との間に生まれ、サタン世界では、執事が夫として嫉妬などあらゆる人類の詰みを乗り超えて見守って(下げ渡された女性儒者に人類始まって以来の従順で勝利して手をつけず)勝利しうまれたわが女子と復帰された天狗長の戸籍上の女子とわが王妃による(実際はこの一の花子は、良識人でこんな不道徳なことを受け入れず失敗してしまったが)男子を娶わせた。つまり、覇葉が違うだけの兄と妹を娶わせた。なくなく王様は、神の心情を知っているがゆえに行った。こんなことが、いとこの結婚も卑しいとする勧告社会にわかったら大変だ。→一花子に気づかれてしまった→日本に追いやれ→子供らも追いやれ→天倫の秘密を受け入れられなかった一花子→燦の釣瓶さんは、無知が故と物欲と打算でたくましく勝利した::::マンセイ::これが理解できたらあなたは原理通:これが反対派の捏造と思ったあなたは、まだまだ信心が足りず原理を理解していない:これを知っていて信じているあなたは、ずっと統一教会にいなさい。その方が世のためです:::もしかして、モーリスさんは、モニカが代表作の歌手で、松田さんと競演した人?



http://www.familyforum.jp/2013120726389

一部転載

文先生一行も大同江を渡らなくてはならないが、上の2つの方法は取れなかったことだろう。なにしろ足を骨折したため、ギブスをして歩けない朴正華氏がいる。金元弼先生が朴氏を自転車に乗せて、文先生と合流したときには、すでに夜で暗くなっていたに違いない。必然的に文先生一行は、大同江にある渡し舟のような手漕ぎ舟を探したことだろう。3人が大同江を舟で渡って、平壌脱出を始めたという話は、教会史である『統一教の足跡』に載っている。しかしながら、どのあたりの場所を渡ったのか、訳された漢字の地名が間違えており、どうもはっきりしない。どうやらその場所はあまり重視されていないようなのだ。

そんな疑問をもっていた中、統一教会信徒のコミュニティサイト「天一net」にある研究コミュニティ「主の路程」に、貴重な情報があげられていた。コミュニティの議長H氏に教えていただいたのは、1976年に全国大学原理研究会出版部から出版された『信仰と生活 第四集-先生の歩まれた道』 に掲載されている文先生のみ言や『統一教会史 上巻』の記述である。自分もかつて読んだことがあったがすっかり忘れていた。もう一度読み返すと、舟で大同江を渡った場所が文先生の口から明確に語られていたのだ。その部分は最後に引用するのでご覧いただきたい。なお、「先生の歩まれた道」は、当時の統一教会の中で、主の路程をまとめた出版物がまだ何もなかった中、当時の太田原理研究会会長の指示で原研OBと大学生たちがまとめた草分け的な出版物だった。

Google Mapによる現在の平壌市街全体から見た各ポイントの位置
▲Google Mapによる現在の平壌市街全体から見た各ポイントの位置
1:写真1の撮影位置/2:写真2の推定撮影位置
A:「景昌里」の位置/B:後述する「万景台」の位置

●脱出した場所は金日成主席の生誕地、そして対岸の地名にびっくり

万景台となる場所に描かれている舟着場
▲後に万景台となる場所に渡し舟の舟着場があった(「土城」1939年陸軍参謀本部陸地測量部・朝鮮総督府発行)

大同江を渡ったその場所は、ちゃんと文先生自身の口から「金日成の故郷である万景台(マンギョンデ)」と語られていた。金日成主席の故郷を通って平壌を脱出していたとは。これはもうびっくりの何ものでもない。しかし、そうなら話が早い。さっそく万景台(マンギョンデ)の位置をWikiMapiaやGoogleMapで探した。

現在、金日成主席の生家がある万景台は、一帯が記念公園になっている。それはすぐわかった。しかし、1950年当時、まだ記念公園もなかったはずで、その地は無名だったに違いない。

万景台と呼ばれているその場所を戦前の平壌市街が載っている地図(1939年発行)で確認した。見てみると、そこは「南里(ナムニー)」という地名であり、舟の渡しがたしかに地図に載っているではないか。おそらく文先生たちは舟着場に残っている舟に乗り込み、大同江を渡られたに違いなかった。対岸には大きい中州がある。そのため、まっすぐ横切らず、川を下りながら斜めに渡っていったと予想した。それが下に示した大きい地図中に引いた赤い点線である。ちなみに、約70年前の地図と、現在の地形とでは、あまり変わっていないことがおわかりいただけるだろうか。

川の対岸の地名は「文発里」「文発島」
▲川の対岸の地名は「文発里」「文発島」(「土城」1939年陸軍参謀本部陸地測量部・朝鮮総督府発行)

地図を見ながら、さらにびっくりしたのは、舟が川の対岸に着いたと想像される場所の地名だった。そこは「文発里(ムンパルニ)」「文発島(ムンパルトウ)」という地名が地図には描かれていたのだ。つまり、文氏が発つ里、文氏が発つ島、という意味である。現在の北朝鮮でこの地名が残っているかどうかは定かではない。もう残っていないだろう。しかし、文先生たち一行が平壌を脱出した1950年当時、一行はまったく気がつかずとも、この地名は明らかに使われていたはずだ。とても預言めいたものを感じた。

文鮮明先生と二人の弟子が1950年12月に平壌を脱出したその場所は、金日成主席の生誕地・万景台だったわけだが、これは何かとてつもない暗示である。実際に面識はなかったものの、このとき象徴的に出会っていたわけで、それから41年後に文先生と金日成主席が“再会”を果たすことになるのだから。