「人類歴史は4000万年」(by文鮮明)
2012年05月03日(木) 16時20分42秒
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以前にも文教祖の人類歴史の長さを記事にしましたが、今回は詳しく説明しているみ言葉があったので、記録として残しておきます。

文教祖はその時々で、語る内容がころころ変わります。人類歴史は数千年から数億年までかなり幅が広いです。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
(参照記事:清平での210代の先祖解怨と先祖祝福(2)

しかし根拠なく語る割には自信を持って語る文教祖ですが、このみ言葉は「自信満々」なようです。

<人類歴史は4000万年前から始まった>

『海に行けば、鮫なども、その種が生じてから二億五千万年、鯨は二億年以上です。大きい動物は、そのような長い歴史時代を過ごしてきたのです。二億五千万年です。地球の年齢は、四十五億年から四十七億年までとされています。
 そこで、神様が万物の主人である人間をつくられるうえで、その必要条件として巨大な万物をつくられたのが二億五千万年前であるとしてみましょう。
 そうであるとするならば、万物の主人を迎える準備のために費やしたその二億五千万年を度外視して、アダム、エバを今から六千年前につくられたというのでしょうか? それは、見当外れも甚だしいことです。
 それでは、二億五千万年前に万物をつくられたとするならば、神様は万物をつくられた後、その主人たり得るアダム、エバを今から、何年前につくられたのでしょうか?
 動物の主人を立てるのですが、準備したその動物を管理することのできる主人をつくろうとすれば、管理者を直接、すぐに立てられたでしょうか、何億年も過ぎた後に立てられたでしょうか? 考えてみてください。そのように考えれば、人間の創造は、今から何千万年前のことなのです。
 このような根本的な問題を知らないのです。無知で堕落したので、無知の歴史を経て、数多くの蕩減的歴史を経てきました。そうして選民圏を立てるために、今から四千年前にイスラエル民族を立てたということを考えたならば、人類の誕生から四千万年以上の歴史が過ぎていったということを考えなければなりません。

(真の愛の主人に侍ろう 1999年6月13日 韓国本部教会)


人類歴史は4000万年前だそうです。
400万でも、4万年でもありません。4000万年前ですよ。

これは1999年に語られたものですので、文教祖が79歳のときに語られたものです。
何を根拠に自信満々に人類歴史は4000万年前だと思ったんでしょうか。

人類の歴史については諸説あると思いますが、一般的には
『地球の誕生から現在まで、50億年という月日が流れているが、人類は地質学上の新世代になって現れた。いまから400万年前に猿人が現れ、80万年前にジャワや北京に原人が現れ、次に15万年前にネアンデルタール旧人、3万年前にクロマニヨン新人が現れた。
このことから、人類らしきものが地球上に現れたのはせいぜい400万年前であり、地球の誕生から現在までを1日経過したと仮定すれば、人類は、ほんの1分前に現れたことになる。』

http://www.sado.co.jp/usami/ginruinomirai.htm

とネアンデルタール人でも15万年前、クロマニヨン人でも3万年前です。
猿人のような人類らしきものでさえ400万年前です。

では4000万年前は、何が地球に生息していた時期でしょうか。
4000万年前は新生代の古第三紀ですが、恐竜はこの前の時代で中生代の白亜紀です。
6500万年前に恐竜が絶滅して、このころ霊長類の始祖が発生したようです。
でも霊長類といっても猿でもなくネズミのようなそういうものでしょう。
文教祖はどうやらネズミのような霊長類を人類歴史としてカウントしているようです。

しかし「人間」として正式にカウントできるのは、聖書的に言うと「神が霊の息を吹き込んだとき」からです。統一教会的に言うと動物にない「霊人体」が付与され霊界と地上界を同時に主管できる立場に創造したときから、でしょうか。

ネズミはちょっときついのではないでしょうか。
そして文教祖が人類歴史をいつも適当に、そのときそのときの気分(?)で変えて語るのですが、わからないのだったらわからないなりに語ればいいのですが、「自分の言葉は100%正しい」と前提を信者に吹き込んでいますから、聞く時々で信者の見解もまちまちになる危険性があるのは、おかまいなし名ようです。
どうせ入れ替えが激しい信者ですし、昔のみ言葉をほじくり出して比較する者もいないでしょうから安心して語っているのでしょう。


<文教祖の人類歴史語録>

<数万年>
堕落した人間始祖の血統を通して、数万年の繁殖があり、その結果として、今日の六十億の人類が生まれたのである。よって、すべての群れは、神様とは全く関係のない血統を持った者たちである。』
(「天地の大道」より 1987年10月4日のみ言葉)

<数十万年>
人類歴史を考古学的な見地から見ると、およそ八十五万年から百五十五万年と見ます。そのような長い長い歴史過程であれば、誰もこれを解くことができず、解決する方法が分からないのです。人間は、山の頂上から、数十万年かけて転がり落ちてきたようなものです。果てしなく、限りなく下りてきたのです。』
(「真の子女の生活2」より 1984年6月20日のみ言葉)


<数百万年>
人類歴史は二百五十万年、一千万年とみなされているのですが、堕落したことが分からなくて、今日まで収拾できなかったのです。しかし先生の時代において、四十年の中で四千年の歴史をすべてひっくり返して、隅々まですべて繕って、根源から、心情のその行き違った道まですべて正しておいて、人類の解放圏まで提示しました。』
(「真の子女の生活2」より 1988年10月16日のみ言葉)


<数千万年>
『神様は今まで、再臨主を中心として、真の父母が立つために数千万年もかかったのです。君たちの負債は、そんなに、一、二年で、真の父母の血統を相続することができると思いますか?』
(真の自分を探しましょう1993年12月19日 韓国・済州研修院)

『ですから長子権を中心として、数千万年の歴史を通して、人類創世以来今まで戦ってきたのです。』
(現地の整備1993年12月21日 韓国・済州研修院)

<数億年>
『我々人類の始祖たるお父さんとお母さん(アダムとエバ)が過ちを犯したがゆえに、数千万年の歴史をかけて、後孫たちは苦労しているのです。人間の文化史は七〇〇〇年ではありません。数億年なのです。
(「祝福家庭子女二十一日修練会」でのみ言葉 1990年2月16日)

清平で210代の先祖解怨&祝福をしろという指示が出たのにも驚きですが、最近は430代までやりなさいという新たな指示が出たらしいですね。

4000万年前は明らかに人間の歴史は始まっていませんが、人類歴史、先祖は何代くらいまでいるのか語ったみ言葉がありました。

2009年に語られたものですが、結論から言うと「現在65億人の地球人口は210代を超えない」という内容のみ言葉です。210代を超えられないと自分で語っていて、430代まで解放しろとはもう献金目的としか思えないのですが・・・・。

つまり根拠のない先祖の代数を提示して、献金を要求していることになります。

現役のみなさん、文教祖の計算方法を解いてみてください。ちょっと長いです。
(時間のない方は赤字だけでもお読みください)

『それで、六十五億の人類が、代数では二百十にはならないでしょう。今何代をしてあげているのですか? (「百六十八代です」)。二百十代を超えられません。』
(第二十六回「愛勝日」記念式典のみ言葉 2009年1月2日 韓国天正宮博物館)

この記事も参考に読んでみてください。
清平の先祖解怨を210代すると解怨される先祖は天文学的人数になる
清平での210代の先祖解怨と先祖祝福(1)


『父母の愛と子女の愛のうち、どちらが上かというとき、それは尋ねるまでもなく父母の愛です。このようにして、父母の愛、その次に子女の愛、そのようにすれば一代、二代になります。父の兄弟がいれば、(父の息子、娘より)父の兄弟が一段階高いのです。父は何代ですか? 父がいるためには祖父がいるということを考えるとき、二代になるのです。祖父が一代、父が二代です。
 それでは、父の兄弟たちは何ですか? 代で言えば、父の兄弟を「サムチョン(三寸:韓国語で『おじ、三親等』の意味)」と言います。「三段階の結末」と言いますが、わたしにとっては、祖父がいて父母がいれば、その三寸は父母の代身の位置になることは絶対にできません。父母とは二寸(二親等)になり、血代としては、わたしが三番目の代数なのに、三寸とは何ですか? そこには、縦的なものと横的なものに分かれた言葉があることが分かります。
 
直線で言うときは(祖父、父、息子の縦的な)三節ですが、三寸は何かと言えば、横的な面の三節を意味するのです。三数は三数ですが、中心と対象、縦的基準を中心として横的基準が連結される因縁が三寸という言葉です。
 自分にとって「四寸」は四代(節)になりますが、四代を中心として、四寸、五寸、六寸、このように代を伝えていきながら縦横の関係を切らずに発展
させていくことによって、縦的な基準は一つですが、横的なものを中心として東西南北という……。東西があれば南北があるのです。東西だけでなく南北があります。平面途上の東西南北には、必ず中央においてどこでも一代があり、二代があります。寸数(代数)で言えば、自分が一節になり、だんだんと遠くなるほど……。「四寸」と言えば、四寸を中心としても、東西南北に拡大した四節なら四節から五寸、六寸、七寸、このように伝わっていきます。
 それでは、家庭を中心としては何が先でしょうか? 縦的な三節の息子が必要でしょうか、横的な三節のおじが必要でしょうか? 流れて出てくる根源を中心として考えてみるとき、父の代を中心として、父の前の息子と、息子の前にまた息子ができれば、三代になります。三代が伝わって、歴史は縦的因縁をずっと受け継いでいくのです。代を経て四代になれば、これが八段階になるのです。東西南北で見れば、八段階に拡大された四代は、最初の一代と同様(の立場)になります。横的に数多くある四番目の節が四方に四倍増え、五代は五倍に増え、このように増えて横的なへりを積み上げていこうとするので、中心は一つでも、周りを取り囲むためにたくさんの数が必ず備わっていくのです。ですから、縦的基準というものは垂直にならざるをえず、横的基準というものは四方に間違いないのです。
それでは、自分を中心とするとき、この中心でも、どこでも、四方に同じように節を持っていますが、中心に影響を及ぼすことのできる位置に立たなければなりません。どの世界でもこのような組織体系を中心として、家庭形成や、国家形成や、世界形成も成されるのです。このような原則において、一つの中心を中心として四方を取り囲んだ東西南北のその節が一緒に伸びていきます。代数が十代になれば十代の節なのです。それはどれほど多いでしょうか? たくさんの系統が連結されて増えていくのです。
 ですから、人は多くの人がいる環境を必要とするので、自動的に人間の欲望を満たすことのできる環境が、四代なら四代の節のように東西南北に四倍、あるいは数十倍まで広がっていくのです。
 きょうも、わたしの孫たちを見れば、相当に多いです。一人が四十人、五十人、百二十人に増えていくことを考えるのです。それで、わたしを中心として一代、二代、三代、周辺に一代、二代、三代の結び目が四方に築き上げられているので、中心はどのように伸びても、季節が変わり、日に日に時間が変わっても、その中心の結び目は、行ったり来たりすることのできない基準的核の位置を守るべき立場に立つのです。
 それで、そのような立場から見るとき、平面的な先祖は何かというと、金氏なら金氏として世代の序列が同じであれば、その序列の一つの茎の基準として長兄になっている人が先祖です。これを中心として先祖たちが一代、二代と受け継いだ伝統を、この代数が変わっても、節がいくら多くなっても、自分の系列的なものを見れば、その節に合わせてその基準を立てていくので、同じ形の公式的発展を中心として大きくなるのです。このような結論が出てきました。・・・さあ、それでは、「天地」の中で「父母」がいくつでなければならないかと言うとき、いくつですか? (「一つです」)。一つでなければなりません。「天地」が一つであれば「父母」が一つなので、「父母」が一つであれば、「父母」が必要な対象も一つです。ですから、だれについていかなければなりませんか? 見える大宇宙があっても、そこで「父母」についていかなければなりません。
 それでは、この二つを一つにする力が何でしょうか? 愛は一代をつくる道や、三寸をつくる……。父と同じように三寸になるのです。自分の兄弟が四寸になり、六寸が飛び出していきます。節を中心として展開したものは、中心と相対としては同じであり、対象格としては一つですが、分かれれば千態万状なので、祖父なら祖父の代数に侍らなければなりません。韓国の歴史がそうでしょう?
初めて見れば、祖父権、父権……。それを見れば、韓国が伝統を尊重する民族だということがすぐに分かりますが、日本のような国は分かりますか? 米国のような国は分かりますか? めちゃくちゃです。だれでも中心になることができると言います。「民主主義なので、代数や寸数(親等の数)でやらずに、わたしたちが集まって……」と言うのです。寸数をなくせば中心も自動的になくすことができるという論理が形成されます。たくさんあるのが節であって、代ではありません。
 節を中心とする世界は分かれざるをえませんが、代数を見る世界は分かれることができず、全体を治めることができる体制の形態が歴史時代に残るのです。そのような国を見るとき、大韓民国は世界のモデルに近いのです。それ以外はすべて傍系の位置、傍系の節なので、寸数(親等の数)を知らない限り、同じ待遇をすることはできないというのです。
 さあ、このようになりました。それでは、何を知ってこの寸数(親等の数)をより分けることができるのでしょうか? おじいさんはおじいさんのふるまいができなければなりません。おじさんのふるまいをすれば、すでに脱落です。孫のふるまいをして一緒に暮らすと言ってはいけないのです。年が多ければ、必ずその年齢に従って代数と寸数(親等の数)が伴うので、家の近い所においては、年を取った人を中心として、おじいさん、お父さん、その次に自分の代、自分の息子の代、このように年齢を中心として高低がなければなりません。・・・
七代になれば十四親等まで行きます。そうでしょう? 一代で三代が広がります。父子関係で見れば、「三寸(おじ)」ができるではないですか? そうでしょう? 四段階になれば六親等になるのです。すべてそのようになっているでしょう? 一代を中心として二代が流れていくのです。七、八親等と言えば七、八代です。それで、数千人、数万人になりうるのです。
 わたしを見れば、三代の孫たちがきょうたくさん出てきているではないですか? 
十三人の息子、娘から孫たちがどれほどたくさん出てきますか? 彼らも皆早く(祝福)してあげれば、彼らが二十歳になると一代が増えます。二十年で一節、一代が増えるので、四十年で二代です。
それで節が三つできますが、三節まで下りていくことはできません。それは違うというのです。ですから、数が何百人、何千人、何万人になりうるのです。それで、六十五億の人類が、代数では二百十にはならないでしょう。今何代をしてあげているのですか? (「百六十八代です」)。二百十代を超えられません。
六十五億です。数千の系統になったのです。

 中心存在は保護する責任があります。彼を生んであげたので、保護してあげなければならず、育ててあげなければならず、その次には教えてあげなければなりません。育て、保護し、教えてあげなければならないのです。
 それでは、自分が三親等を知らず、四親等を知らず、自分の父のおじを知らないのに、六親等は分かり、八親等は分かるというのはいけないでしょう。普通、七、八親等になれば忘れてしまうではないですか? なぜですか? 九親等まではサタンが管理します。その管理圏内にいますが、七、八、九に入っていけば、十親等は縦的になります。徒党を組むのです。ですから、一桁の九数までは一の位を占有しますが、十の位置は二桁であり、十一は三桁(に出発する位置)です。ここにこのように出て、このように出て、枝が伸びるのです。この延長線の十二の位置まで行きます。
 ですから、十一と言うときは、十とは違います。二十と二十一は違います。次元が高く伸びていき、もっと大きくなっていくのです。このように見れば、この差に該当する発展をするというのです。ですから、ここに来て一周、回ってきて……。
 個人時代を一周、回ってきたので、ここに入っていってここに合わせれば、これが横的基準から縦的基準にこのくらい大きくならなければなりません。これはへりとして大きくなるので、周囲にたくさん繁殖しますが、代は小さくなるということです。
 十倍、十二数、ですから十倍まで増えていくのです。十二数は百二十数であり、百二十は千二百数、千二百は一万二千人です。代数が変わるのです。十代を中心としては、周辺は十倍に増えていくというのです。そのように計算します。
 「単(一)」と、その次は「十」でしょう? 単(一)、十、百、千、万、十万、百万、千万……。百倍の百倍が万ですか? 万の万倍が億です。普通、億まですれば、上がっていくときは……。十(億)数ならば、丸(ゼロの数)が九つになるはずですが、億ならば、一を中心として丸が八つです。これも一桁です。しかし、「十」と言えばこれが変わるのです。ですから、「十」と言えば「十一」に行きます。変わります。係数が変わるというのです。十倍に増えます。』

(第二十六回「愛勝日」記念式典のみ言葉 2009年1月2日 韓国天正宮博物館)

http://ameblo.jp/chanu1/entry-11240338488.html より転載


http://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htm 人類の起源
現在のホモ・サピエンスも10万年ほど前にアフリカで誕生して、世界中に広がっていったようである(第2の出アフリカ)。つまり、現在の人類はアフリカに起源を持つ単一種 ということになる。ヨーロッパ人が「発見する」よりも前、ホモ・サピエンスは南アメリカの南端、太平洋の島々を発見して、そこに住み着いていた。