責任の所在 | シンプルな日々の幸せ

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本日の橋下氏の言によると、

先日の

「宗教弾圧の歴史」との発言は、

治安維持法のことを言っていたらしい。


思想弾圧のことですね。


自民党、維新の会が

改憲案の土台としている

大日本帝国憲法下で決められた

悪名高き法律ですが。


(承知の上で、

シレッと改憲案出してるということ

バレましたね。どこまでもあくどい。)


だとすれば、

なおのこと、

民主主義、法治国家においては、

せめて最低限のレベルで

きっちり透明化され、

公開されたルールを作ることが、

むしろ、恣意的な権力行使を許さない

ことにつながるだろうと思います。


紀藤弁護士がおっしゃる通り、

内心の自由を保障するのは、

当然のこと。

(むしろ、軽視しているのは

国民の意向を無視して

国葬強行するような

自民党や維新の会では?

それこそ治安維持法再来では?)


例えば、政党ごとなど、

個別に基準を作るとなると、

一般国民には、判別や実態が

わかりにくく、

パフォーマンス的に、

やってる「ふり」もしやすくなり

(それこそ、維新の得意技?)

かえって国民の注意を逸らし、

恣意性を高めることにつながり

かねません。


今日は、紀藤弁護士も出演して

くださったので、

論点を戻して、整理していただくことができ、

議論を恣意的に捻じ曲げられずに済み、

ホッとしました。


法律は、国民のために使われて

初めて意味があるわけです。

法律のために法律があるわけでは

ありません。


そして、

今日も、橋下氏が言っていた通り、

もし、

官僚は受理することしかしてはいけない

のだとするならば、

むしろ、責任問題は、

受理「報告」を受けたにも関わらず、

それにより想定される問題に

対処するための法整備を進めなかった

文科大臣、閣僚、議員の側の不作為に

あったことが、

はっきりしますね。


それによれば、

下村文科大臣の責任が、明確に

裏付けられたということ

ではないでしょうか。