3upの窓

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 一日中かかる各種検査後、入院、手術の日を決める段階で、主治医先生、モニター画面を見ながら首をかしげている。結局、可能な日は2カ月近く先しかなく、いざ決めるにあたって、先生また考えている。せっかく一日かけた血液検査をはじめ、造影剤注入からMRIなど各種検査してから1か月以上過ぎては検査をやり直さなくてはという。小生の方から「また一連の検査を全部やり直さなければいけないのか」と問うと、大きな検査は必要なく採血心電図、尿検査、呼吸検査などでいいという。早く言えと言いたかった。

 

 そんな訳で6月11日入院、13日手術に決まりました。手術は約4時間、俎板の鯉よろしく先生に全て任せるべく手術台に。腰椎の手術のため身体はほぼ下向きに。このままでは体力が持つのかと自問自答したが、そこは麻酔の効果だ。気が付いたのはベッドがエレベーターに乗るときのガタつきでした。それは約2年前の右肩関節置き換え手術のときと全く同じでした。そのまま5階外科病棟の病室に入りました。なにやら身体を取り巻く管の数は前回より多いようです。天井からカーテンだけは目の移動だけで確認できますが、病室はまことに狭い感じです。心配そうに見守る家内や倅家族に感謝と帰宅を促し、その日はそのまま寝てしまいました。 

 

 翌日早朝目が覚めると、看護師さんが様子見にきました。酸素マスクを外し、痛いですか、身体はどうですか?など質問のあと体温、血圧、血糖値などを測定し、朝のくすりを忘れないようにと注意され、間もなくして自らベッドを起こし朝食となりましたが、看護師さんから何の手助けもありせん。気が付くと6人部屋で、まことに窮屈この上ない気持ちになりました。当初からお願いしていた4人部屋ではないことを、看護師さんに注意すると空きがなく、明日移るとのことでした。午後になると、麻酔と窮屈さからか妄想が現れるようになり、カーテンの上の方に色々な文字が、さらにカーテン全体に建物や自然、動物、人間が映るようになりました。その日は眠りにつくまで妄想に悩まされました。 

 

 手術をして2日目、4人部屋に移る日です。朝食後、看護師さんはシャンプーでベッドのまま小生の身体を拭いてくれました。「最初から4人部屋でなくてスイマセン。退院予定の患者さんが遅れまして」とのことで、小生も妄想は無くなりタイミングが良かったと思いました。点滴やおむつ、尿管も外れた代わりに、入院前に小生の身体に合わせて作られた、文字通りオリジナルのコルセットを着用し、持参した小生の持ち物を補助員さんが手際よくまとめ、待望の4人部屋に車椅子で移動しました。懐かしい2年前の和風4人部屋です。自分で洋服ダンスや下着、タオル類の引出しに収納しました。例によって冷蔵庫、テレビなどが使用できるカードは買ってありましたが、テレビは疲れるため持ってきた携帯ラジオで過ごすことにしました。 

 

 昼食のとき数人の看護師さんが手分けしてトレーに盛られた食事、果物、飲み物など、声掛けをしながら手際よく配膳にかかりました。2年ほど前に入院したこともあり、小生の顔を覚えてくれいた看護師さんも多く、楽しくなりました。「同じ4人部屋でも窓側でしたね」とか「三上さんは非常に印象深い」などと言っていしたが、「小生の頭(禿げ頭)とめがねでしょう」。その通りと言わんばかりに数人の看護師さんは大笑いでした。こんどはトレーを引き上げるとき、「食事が済んだら髪を洗いましょう」ときた。小生「髪は無いし洗うとろがない」と言うとここでも笑いを誘う。家内が持たせてくれた髪も顔、身体も洗えるスプレータイプのシャンプーはあると答えると笑顔で納得した様子でした。(次回に続く)

 ちょっと前まで「自信の体力にガタ、右肩手術ではじめての貴重な入院生活」とのタイトルで月1回20回まで連載してきました。よくもまぁだらだらと続けてきたものと我ながら思いますが、前回はタイトルの通りで、手術・入院ははじめてなので駄文を綴らせてもらいました。本心はもっと続けたいと思いましたが、家内から自己満足はいい加減に終わらせたらとの声がかかり、1年8カ月の20回で終わりました。まだ続けるつもりでしたので、残念ながら最終回ははしょるように切り上げました。 
 
 今回はそんなに長くはしないつもりです。1回目の手術から2年と数カ月後、81歳になっての入院・手術ですので主治医の部長先生は「年だからなぁー」と再三つぶやいていましたが、小生の食い下がりに先生もようやく決意しました。その辺りから2回目の闘病記について記したいと思います。
 
 前回の「右肩関節置き換え手術」は、若いころから庭いじりが好きで、重いものを持ったり高いところの枝を落としたり、剪定したり、植木を移動したり、土を運んだり色々やりました。こじんまりしたロフト付きの小宅を含め200坪の庭でした。したがって月1回の訪問が面白く精一杯庭いじりをやり、温泉も導入し人生を楽しませていただきました。これがその時の「力仕事」が、80歳近くになって右肩関節がすり減り変形し、しかも腱板も断裂、切断されてわずかに残った筋だけで動かしているとのことで関節をそっくり取り替える手術でした。 
 
 この手術の約2年数か月後に、その時から腰から左足全体にかけて苦痛がひどくなり、先生によると脊柱管狭窄症に伴う「腰椎分離滑り症」と診断された。今回も掛かり付医院の先生が気軽に紹介状を書いてくれました。この医院の先生は同じ大学病院の出身で学会専門医制度の指導医となっています。今回、担当する大学病院整形外科の部長先生は、毎週の金曜日しか診察しないということです。その訳は金曜日以外手術等で出られず、まことに多忙で貴重な先生を紹介されました。 
 
 そんな訳で、掛かり付け医院の方から大学病院側の部長先生に直接予約を入れてくれました。小生の肩関節手術をした、当時の若い部長先生は本院に転院となり、後を継いだ今回の部長先生が引き続き、右肩関節の置き換え手術の経過観察を行っていた関係で、まったく知らなかった訳ではありませんでした。部長先生も若く、前先生のようなやる気満々を表に出すことなく、どちらかというと静かな雰囲気です。今年の2月の定期観察の際、小生の脊柱管狭窄症について、MRIでの画像を見ながら変形を指摘し、手術の意向を示していましたが、端末を見ながらまたもや「年だからなぁー」とつぶやいていました。 
 
 それが紆余曲折を経て手術することになりました。手術前の5月上旬にレントゲンや造影剤を投入する検査、採血、心電図、呼吸、尿などの一連の検査、さらに院内の患者総括支援センターでの入院に関することや家族にまで及ぶ各種質問などを受け、早朝に家を出て病院をあとにしたのは午後6時半を過ぎていました。家内も小生もぐったりでした。前の手術のときはまだ70歳代、まだ若かったせいかこんなに疲れませんでした。(次回に続く)
 もう4、5年前になりますが、小生にとって8月は特別な月であると書きました。それは日本がはじめて経験する「敗戦」を宣言した月でした。小生は疎開先の宮城県松山町の農家で、聞きとりにくい「玉音放送」に接したのです。小学1年生でした。齢、傘寿を過ぎると、過去に仕事がら世界を駆け回り、各国の観光も楽しんだことも記憶から徐々に薄れてきていますが、戦中から戦後の劇的な変化は小生の脳裏にはっきりときざまれています。 
 
 今年は敗戦直前の衝撃的な場面や、昨今の世相と戦争感に関し、織り交ぜて、駄文を綴らせていただきます。小生が小学生になる1年前あたりから、5人兄弟の長男(小生は5人兄弟の一番下)は、電気関係の企業に努めていた関係でかなり以前から、父親に内緒で家の押し入れの天井裏に、自分で組み立てたラジオで短波放送を聞いていました。「日本は敗退し続けている。このままでは負ける」と長女に話しているのを聞きました。小学生になる1年前の1944年4月ごろでした。 
 
 それからあくる年になって米軍は沖縄本島に上陸、6月中頃には沖縄は全滅し10数万人が亡くなりました。小生は沖縄を何回か訪れましたが、本土復帰直前にも行きました。まるで外国に行ったようで免税店などに案内されましたが、ひめゆり部隊が自決した洞窟などなど、その悲惨な惨状をバスガイドさんが涙ながらに説明してくれたのを思い出します。話は戻りますが、沖縄全滅後、米軍の本土空襲が徐々に頻繁になり、市民の、とくに中高年男性はB29からバラバラと落ちてくる焼夷弾を、鳶口で懸命に延焼を防いでいました。 
 
 空襲は全国都市に及び大人は鳶口などで、また女性は竹やりを持ちながら「本土決戦」を叫び、焼夷弾ばかりか、何トン爆弾かは分かりませんが、小生の家の周囲に池でもできたように穴があき、着弾時の爆風は家の中を貫通し雨戸や襖などを吹き飛ばし、爆弾の破片が大黒柱に突き刺さり、もしそこに人がいたら死に至るものです。爆弾の破片は大きな金属を引き裂いたようなキラキラ光る美しさで、現在ならオブジェとでも言うのか、しばらく家の床の間の隅に置いて眺めていたほどでした。 
 
 そしてその年の3月10日東京大空襲となり、幸い小生宅と隣の1軒は焼け残りました。そのため小学1年生になったばかりの小生は学童疎開に参加し、はじめは長野の善光寺円乗院という宿坊に疎開となり、その後空襲が激しくなり、親戚の仙台の靴店、宮城県松山の農家を転々と移りました。さらに米軍は8月に、広島、続いて長崎に原子爆弾を投下し、ラジオの大本営発表はこのごに及んでまだ勇ましい言葉ばかりを繰り返していました。しかし、ついに8月15日、降伏宣言の玉音放送となりました。 
 
 ざっと敗戦までの小生の経験を述べましたが詳細は省きます。いずれ機会がありましたら書かせていただきます。それにしても昨今の政界は総理大臣をはじめ戦後生まれが大半で、戦争に召集されなくても、大人たちの「本土決戦」、「銃後の守り」の言葉を聞いている議員もいると思います。終戦直前のB29からの爆弾、焼夷弾攻撃による大火災の凄まじさや、道路に黒焦げの死体が転がる悲惨さを聞かされても忘れているようです。もっとも戦後70年以上も過ぎると敗戦の日も分からない人も多いようです。 
 
 主に現政権になって、平和憲法に反しじわじわと戦争が出来る法制度を整えてきました。最近では北方領土訪問団の1員として参加した若い衆院議員が、北方領土に関し「戦争しないとどうしようもなくないですか」と言い、議員としてあるまじき行為と問題発言をしていますが、これも戦後生まれの最たる事例ではないでしょうか。そうして現政権の執念ともいうべく憲法改正へ、我々に問う機会が着々と近づいているようです。

 右肩関節置き換え手術という小生にとっては生まれてはじめての入院・手術という経験は、傘寿を超えた年寄りとしてはきつい思い出となりました。しかし長い人生の上でこの経験から何を学んだのか、その一部はこれまでの20回に及ぶ(少々だらだらしていましたが)闘病記に記されていると思います。しかし小生は経験しただけで、学んだという確たるものがありません。これからあまり長くない人生にどう活かせばよいかスッキリしません。 
 
 色々考えてみました。原因を探ってみると、長く続く家内の体調不良、それに伴う介護問題、小生の腰椎分離滑り症の手術、代表となっている環境関係問題、小生の所属する企業に迷惑をかけている現状、さらにいえば、ブログを二つと業界紙に掲載するコラムなどなど。これらが入り混じった悩みが不快感となって、すっきりしない現状となっているのではと思います。いずれにしても肩関節手術前(78歳)と比較し身体の動きや頭の回転も鈍くなっているようです。現在の脊柱管狭窄症(腰椎分離滑り症)の痛みも大きな原因と思います。 
 
 こんな状態ですのでリラックスすることが第一と、よく休み脳みそも回転させないように薄い居眠りのとき「ぼーっとしているんじゃねーよ」というテレビから聞こえる怒鳴り声に目がパッチリしました。このくらいの「プレッシャーに負けるものか」と改めて自らに言い聞かせましたが、マスコミや政権の新元号に対するバカ騒ぎのあと、トランプ大統領日本訪問時の相撲観戦に関する政権の振る舞い。さらにG20の開催、参議院選と、プロパカンダは何処まで進むのでしょうか。 
 
 以上の事柄も小生の不快感に覆いかぶさっているようです。こうしたことが来年の五輪に向けてこれでもかこれでもかと続くのではと思うとうんざりすると同時に、事件や自然災害、とくに5月というのに北海道佐呂間町で39.5度になり、これも地球温暖化?「そんなことを心配しているようでは何もできない」とお叱り受けるのは当然です。甘んじて受けます。ただ、現政権のやりたい放題、官僚のあれだけの忖度と不正、森友・加計問題、閣僚の不祥事による辞任などなどがあっても支持率が下がらないのはどういうことなのでしょうか。それも解明されないまま改元のお祭り騒ぎにかき消されてしまいました。 
 
 野党がだらしないなどの問題ではないような気がします。現在のように、政権のやること成すことにマスコミが応援しているように感じます。こうした世の中の空気、流れは、心配性の老人には立派な憲法を持っていても、政権のプロパカンダによるナチス政権(ドイツ)の誕生を思い出します。問題発言の多さでもびくともしない政権中枢の御仁が、憲法改正に関して過去このように言っていたことを思い出します。「ある日気がついたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。あの手口に学んだらどうか」。結果は第二次世界大戦と敗戦。昨今は米中経済戦争による新たな冷戦時代に入りそうな空気。そうして米国とイランとの一触即発へ高まる緊張。いずれにしても“経済戦争”“武力戦争”にならないように祈るばかりです。

 “ベッド体当たり事件”後、お向かいの患者さんから、スポット照明の点灯している小生の部屋に向かってカーテン越しに、「ベッドなど余裕をもって通れる通路なのに、しかも看護師さんが周りを取り囲んでいるのにどうしてぶつかったんでしょうね」と話しかけてきました。しかし小生は、例の“勘繰り”は口に出さず、「驚きました、看護師さんといえども気が動転していたのでしょうね、さぁやすみましょう」とだけ答えスポット照明を消灯して眠りに入りました。だが、そう簡単に眠れず、眠れない時のために持ってきた睡眠導入剤と、1時間にセットした携帯ラジオの世話になり、20分ぐらいで熟睡となりました。 
 
 “事件”から一夜明け、中間にトイレは1回、薬のお陰で8時間ぐらいぐっすり眠れました。小生、いつもの通り髭そりと洗顔(歯磨きは食事後にしている)でカーテンをあけ出ようとしたとき、お向かいさんとばったり。やはり昨日の話題になりました。周囲の病室の患者さん達にも聞かれたということでした。お向かいさんと一緒にぶつかった箇所を調べましたが、頑丈な骨組み、プラスチックのためか傷やへこみは見当たりませんでしたが、その痕跡を発見しました。また、ベッドの位置が少し斜めになっているのにも気づきました。ベッドの足はしっかりとブレーキがかかり、ちょっとやそっとでは動きません。小生が、洗面に行っている間に何もなかったようにきちんともとに整っていました。お向かいさんから「看護師さんが来ていたようですよ」と声がかかりました。 
 
 昨夜、緊急に運ばれて行った患者さんは、今日中には戻ってきませんでした。小生、今日あたりに退院が決まるのではないかと予感がしていました。午前中にリハビリから帰って、一息ついていると、少し離れたところから「三上さーん」との聞き覚えのある声が聞こえたと思ったらカーテンがさっと開き主治医の部長先生から「こんにちは」。小生、恐縮するように「こんにちは、久し振りです」と。先生曰く「三上さんは元気が良すぎるのか、ベッドにいない方が多かったんでは」とのこと。小生の倅くらいの年齢ながらやる気満々部長先生は「両手を高く上げて、先生の手を握り返して」と一通り検査し、小生の万歳の状態をスマホで撮影したあと「三上さん退院です」。小生、先生の手を握り感謝の意を伝えました。 
 
 日本に導入例はまだ少なく、米国製の最新肩関節にそっくり交換するといういわば大手術でした。予約診察の日に、多くの検査や血糖値が高いため、1週間の病院食治療入院・手術日などをこちらの事情など、おかまえ無しに決める部長先生でしたが、小生、多いなる尊敬の念を禁じ得ません。感謝の一語に尽きます。先生、最後に「右肩を保護するウルトラスイング(ギプス)は当分セットしてリハビリに通うように」とのことで、明日、退院となり28日間の貴重な入院生活に終止符を打つことになりました。 
 
 退院当日、すでに退院していった「さわやかさん」を見習って、病室のお向かいさんに冷蔵庫に残っていた2つの水ボトルをプレゼントし退院あいさつ。ナースセンターの看護師さんにもお礼のあいさつをして、会計センターで支払いを済ませ病院をあとにしました。(おわり)