今年に入ってから、SNSで境界知能のワードが目立つようになってきました。

境界知能というワードは、2019年に発売された『ケーキを切れない非行少年たち』をきっかけに広く使われるようになりましたが、あまり良い使われ方をされていないように思われます。例えば、政治において、特定の政党の支持者(主にれいわ新選組)を「境界知能」と呼ぶケースが目立ちます。

ちょうどタイムリーに解説しているYouTuberがいました。

 

 

 

リアルタイムでこういう現象が見られるのは非常に良くないことでありながら興味深いことですが、仮に特定の政党の支持者が境界知能に集中していたとして、それが問題になるのだろうか、という疑問は残ります。むしろ、境界知能の方にもわかりやすく政策が伝えることができるというのは望ましいことであると思います。

 

政治は非常で複雑であり、有権者は正しいことを追求して政党を選択しているのですが、民主主義が必ずしも「正しい政策」を追求して行われているものではないのではないか、という疑念を持っています。賛否両論あるとは思いますが、個人的には、より望ましい決定をするのであれば、少数による決定の方が良いのではないかと思います。実際に衆愚制という言葉もありますし、ここら辺はプラトンやアリストテレスの時代から議論されていることではあります。

 

 

ではその上で、現代にあえて民主主義を採用している理由というのは、望ましい結果よりも人民の平等、参政権といったところを重視しているからではないかと考えます。(もちろん、望ましさの基準がイデオロギーによって大きく異なることは大前提です)そのため、他党の支持者を頭が悪いということに意味はなく、頭の良し悪しに関わらず同じ一票でしかないのです。それを否定しようと思えば憲法から見直さなければいけません。民主主義の否定はちゃんと合理的な理由が伴えば聞く価値はあると思いますが、現実的に厳しいかと思います。

 

ところで、「国民の代表者」とは何なのか難しいところです。現行では各地域から人口に比例した代表を選出するという「地域代表制」が取られており、一票の格差の問題と結びつけられるようです。一方で、性別についても人口の割合と同じく代表を選出すべきという議論が根強く行われています。これに則れば、知的障害者の代表を選出することも間違っていないわけですが、そういう議論には至りません。(衆議院で9人、参議院で5人ほどいても良い計算になります)身体障害者については賛否両論ありながらも国会議員が生まれたわけですが、知的障害についてはその動きはありません。現実的に難しいこととは思われますが、「能力主義」によってこれを肯定するにはどういうロジックが必要なのかはわからないところです。

 

もう一個性教育についての記事も書きたいのですが、それは次の機会に。