最近読んだある記事、弥富市の殺人事件、小山田圭吾氏の報道などから最近考えたこと。

この記事の前提として、「いじめ」という行為自体は加害者が100%の責任があり、「被害者にも問題がある」というような主張をするものではありません。

 

インターネットの風潮を見ていると、いじめは絶対悪で、加害者には法的な刑罰を加えるべき、という論調が目立ちます。確かにいじめと言っても中身は暴行罪や傷害罪、脅迫罪などに分類できるものは存在します。行為自体を見たらおかしい話ではないです。

一方で、僕が違和感を覚えたのは、インターネット上の書き込みが完全に被害者目線になっていることです。これは言い換えれば加害者は自分とは全く異なる存在だと想定されているということです。2000年代前半は、発達障害がそのターゲットとなりました。

 

しかし、本当にそうなのでしょうか。自分が知らないうちに加害者になっていることも考えずに被害者目線に立つのは、何か違うような気がします。実際には、自分が犯した加害については認識できないからこそ被害者目線でしか物事を考えられないのでしょう。

 

僕が気になっているのは、いじめ加害者は本当に「自分とは違った、恐ろしい、排除すべき存在」なのかということです。子供の頃いじめをしていた人がその後どういう人生を歩むかについてのデータがあまりないのですが、問題なく社会生活を送っているケースが多いのでしょう。

 

これは深刻な問題です。なぜなら、「普通の」人間でも被害者に一生心に残るような傷を負わせることができるからです。ここで、「更生したなら問題ない」という意見と、「昔いじめていたのにのうのうと生きているのは許せない」という意見の両方があり得るでしょう。

 

人を死に至らせるような壮絶ないじめになると、やはり自分とは異なった恐ろしい存在だという考えの人も多いと思いますが、いじめがどの程度重大なものかの判断は、主に被害者の認識によって決まります。そのため、具体的な線引きは難しいのです。

 

被害者が加害者に厳罰を望むのは当然のことでしょうが、そもそも現在の刑罰というのが何のために存在するか見てみましょう。

 

 

 

これによると、懲役の目的は隔離、矯正、抑止の3つです。

まず「隔離」は前提として、加害者が社会秩序を乱す存在であるということを前提として成り立っています。そして「矯正」も、犯罪行為を反省させることです。則ち、刑罰は社会秩序を守るために存在し、被害者のために存在するのではないということです。ハンムラビ法典まで遡れば考え方も変わってくるのでしょうが、今の法治国家ではこのような現状です。(法学には詳しくないのでこの辺で)

 

ここから言えるのは、仮に過去に犯罪を犯していたとしても、現在社会的に問題がなければ罪には問われないということです。時効というのはそういう意味合いも持っているのでしょう。

 

これのニ説に基づいた考え方でしょう。被害者側から見れば不服でしかありませんが、これが現状です。

 

少年法は、このうち矯正の役割を特に重視して存在しています。法律がかなり加害者に有利なように設計されているようにも見えますが、そこに恐ろしさがあります。

 

少年法は、一定年齢以下の場合責任能力を負えないことが根拠として存在しています。つまり、責任能力を負えないのに人の将来を奪うようなことができてしまうのです。言葉を変えると、矯正が期待されているということは、加害者は「強制不可能な人間」(果たしてそんな人がいるのだろうか)ではないと認識されているということです。ここら辺は死刑廃止の議論にも関わってくるでしょう。

 

ここまで長々と書いてきましたが、僕の個人的な感想としては、「加害者でも被害者でもない人が全面的に被害者の立場に立つ(=正義を振りかざす)のは間違っている」ということです。その上で、自分が過去に犯したかもしれない加害についてどう向き合っていくかというのは、一人一人に求められることでしょう。

 

家庭環境などに突っ込んだ話もしたいのですが、そこまで話ができるほど僕の理解が進んでいないので、ここら辺で。