前回の続きです。
前回は、障害者がどれくらい自立できるかに応じて働く場所が用意されているという話をしました。そして、このような言葉で締めました。
「これは我々が意識しなければいけないことですが、そもそも「教育によって自立に近づくべき」というのが社会的に構築された概念である(つまりこれは絶対的とはいえない)ことも大事です。」
自立を目指すことによって本人の生活の幅が広がるというのは正しいことですが、同時に社会的責任も大きくなります。特別支援学校では働くことについての授業が多くを占めるようですが、「働くのは良いこと」という綺麗事だけを刷り込むことでは済まされないでしょう。
わざわざこのタイミングでこの記事を書いているのは、今日で相模原の障害者施設での殺傷事件から5年が経過するからです。
当時の報道でもかなりの違和感を感じました。その最も大きなものは、「そもそも知的障害者福祉施設とは何か」「入所している障害者はどのような人なのか」というのがほとんど報じられなかったことです。(これについては、報道を見落としていただけかもしれませんが…)
僕も事件当時はそういうことには疎く、なかなか声を上げるまでに至れませんでした。
調べてみると、有識者の意見が出てきました。昨年の記事です。
一部引用。
しかし、事件が起きるまで、言葉は悪いが、人里離れた施設に知的障害者が「隔離」されるかのような現状であったことを誰も知らなかったし、障害者の問題は多くの人々にとって「他人事」であったことはたしかである。
事件を受けても「かわいそうだね」「ひどいね」と口にはするけれど、やはり他人事であり、4年が過ぎた今は、それもきれいさっぱり忘れ去られようとしている。
全くその通りで、普段重度障害者が施設に隔離されていることには目を向けずに、事件だけを報道する姿勢には疑問を覚えました。かつてのように存在が否定されていた頃に比べるとだいぶ改善されてきましたが、前途多難です。
ここで問題となってくるのが、障害者のうち働く能力のある人に、合理的配慮などにより働く環境を提供することは結局働く能力で人間を線引きすることになってしまうことです。「重度障害者は不要」という意見は否定されなければならないのですが、結局のところ「命は大切」と言いながらもその背景などには目を向けられなければならないようです。
「事件は派生的に『生きるに値しない生命はあるのか』という根源的な問いを、わたしたちに投げかけた」
ここで「私たち一人一人ができることは何か?」という話に移ってもいいのですが、もっと社会構造に切り込むのが僕の役目かと。一般市民は問いを投げかけられたところでできることはどうしても限られてしまいますし、読者のみなさんの方が何をしてほしいかについてはよほど詳しいでしょう。
現状を変える手段は「教育」「報道」「政治」の3つだと思います。いろんな社会活動をしていらっしゃる人がいますが、まず共通する目標は「知ってもらう」ことだと思います。知らなければ議論は始まりません。
学校は議論することが教育的な意味を持つ場所です。命の価値や選別の問題についてはきれいごとだけが学校教育で教えられています。障害に関することもだんだん扱われ始めているように感じますが、道徳教育は価値の押し付けになってしまっているのが現状です。昨今ではインクルーシブ教育も主張され始めていますが、結果として障害者に対する忌避感が増すだけではないか?という意見もあります。結局どうあるべきかはまだわかりません。
現状を一番変える変える力があるのは政治ですが、それにはまず教育と報道が大事になってくるのでしょう。
線引きの問題というのはすなわちダブルスタンダードの問題でもあります。「すべての命は大切である」という考え方と「重度障害者は社会から隔離され、一般市民はその実情すら分からない」というダブルスタンダードが現状です。
だが、ダブルスタンダードが一概的に悪だとは言いたくありません。ちょうど今オリンピックが行われています。(見ながら書いています。)蓮舫議員がオリンピックには反対だが、日本選手を応援という態度を示したことが大きな批判を呼んでいます。「アスリートと国民のどちらが大事か」という二元論に持ち込むことは問題だとは思いますが。
コロナ禍で東京五輪を開くか?という問題は短期的な課題であり、「できるだけ完全な形での開催」と「国民・選手の安全」の両立をどう考えるか?という現実的な問題に直面した時、ある程度のダブルスタンダードはやむを得ないと思います。
一方で障害者の問題は消えることのない課題であり、基本的な姿勢がダブルスタンダードと言うのは少し受け入れ難いです。
オリンピックについてもう少し深く考えてみると、別の視点からの事実が見えてきます。
オリンピックは国別対抗戦です。オリンピックが世界平和の理念を持ち合わせているのは事実ですが、どうやら「国が存在して、その上で国の違いを認めていく」という考え方のようで、ナショナリズムと切り離すことはできません。一方でリベラルな考え方だと、そもそも国籍というものにこだわるのが間違いだという考え方を持つ人もいます。聖火点灯者に大阪なおみ選手を起用したことで国を超えて選手を認め合うというメッセージを発信したのだと思いますが、国別対抗戦ということでどうしても日本代表というものが喚起されます。(結果的に、日本人だから日本を応援するということはあるでしょうが、日本を応援しないから非国民ということにはなってほしくないです)
「違いを区別してお互いを認め合う」「違いを区別しない」のどちらが正しいか。これも簡単に答えが出せる問題ではありません。
少し話がそれましたが、この話をした理由は国を障害に変えても成り立つからです。(ジェンダーでも成り立ちますね)「障害は個性」という言葉もずいぶん聞かれるようになってきましたが、「障害」はだめで「個性」はいいというのも変な話です。
「日本人」と「外国人」を分けた上で認め合うのか、それとも国籍という意識を排除するのか。「健常者」と「障害者」を分けた上で認め合うのか、それとも障害という意識を排除するのか。根源的にかなり似たような問題だと感じながらオリンピックを見ています。
今回もすっかり長くなってしまいましたが、「どうあるべきか」というのは簡単な結論を出せるものではなく、絶えず考え続けていかなければならないのでしょう。