蓮は深い深いため息をついた。今、蓮にはそうする事しかできなかった。
昨日、キョーコに食事を頼んで、部屋の鍵を渡した。予定ではスムーズに終われば夜8時には部屋に帰れるはずだった。それが、機材の不調やリテイク、その他にもいろいろなトラブルやハプニングが重なり、せの現場から解放されたのは天辺を越えてから。遅くなる時点でキョーコに連絡を取ろうとしたが、どうしても連絡をとることができずに時間だけが無情に過ぎた。いろいろなトラブルのせいでギクシャクし始めた現場で、監督の采配で一応の区切りがついたところで軽く懇親会をすると言われれば、主役の蓮には帰るという選択肢はなくなってしまう。そこは、温厚紳士ならば誰よりも笑顔で周りに穏やかな空気を振り撒くのは当然の事だろう。
天辺を越えた深夜、懇親会では軽くアルコールも入り、蓮の周りには女優たちの輪が出来る。あちこちから繰り出される誘いを温厚紳士な態度でそつなくあしらってはいたが、結局最後まで抜けられなかった。
時間は深夜から明け方に変わり、お開きになったのはもうすぐ早朝になろうかというしていた。蓮は早朝から撮影が入っていたので部屋に帰る時間がとれなくなっていた。仕方なく移動に一番便利な場所にあるホテルでシャワーと着替えを済ませて仕事に向かった。
だから知らなかった。午前中のワイドショーが自分の話題で持ちきりだという事を。
朝一番の仕事を終えて、蓮はやっとキョーコの携帯を鳴らした。数回のゴール音のあと単調な機械音のメッセージが流れ、留守録になる。
『あ、敦賀です。昨日はごめん。仕事が押してしまってどうしても抜けられなかったんだ。最上さん、待っててくれたんだろ?今は学校かな?ちゃんと謝りたいから連絡を下さい、待ってます。』
メッセージを残して終話ボタンを押した。途端にまた深いため息を吐いてしまう。留守録に残したメッセージがなんとも言い訳がましいと思ってしまったからだ。昨日やっと告白して想いが通じたと感じた。すごく嬉しかった。だから仕事にも気合いが入った。きっといい仕事をしたと思う。だが、現実はなかなか上手く動いてはくれない。時間だけが無情に過ぎて、やっと届いたばかりの彼女にこの手が届かない。今の自分がどうしようもなくダメな男に思えてくる。きっと彼女に寂しい思いをさせてしまっただろう。そう考えるとまたどうしようもなく気持ちが沈んでしまう。彼女の幼少期を知っている蓮は、彼女に不義理をするという事がどれほど彼女を傷つけるのかを知っている。彼女は平気な顔をして大丈夫と笑うだろう。そして、その寂しさや悲しみを心の海の深いところへ沈めて大丈夫を装うだろう。今すぐ彼女の元に飛んでいって抱き締めたい。きつく抱き締めて彼女が一人ではない事を伝えたい。寂しい時は寂しいと、悲しい時は悲しいと言っていいんだと教えてあげたい。なのに、自分はここにいて、彼女のそばに行くことができない。
蓮は自分のふがいなさにほぞを噛む。
『蓮、テレビ観てみろよ。大変な事になってるぞ?』
真剣な表情で楽屋に入ってきた社の言葉に首を傾げて答えると、社がテレビのリモコンを手にとってスイッチを入れた。
モニターに映るのは自分の顔写真。そして自分の名前が連呼されている。画面の右下のテロップには「敦賀蓮、初のスキャンダル!」の文字。
蓮は頭の中が真っ白になるのを感じた。憶測や推測で報じられているその内容は蓮はは全く身に覚えの無いこと。全く他人事のようにしか受け止められない。
社はリモコンでテレビのチャンネルをいくつか変えるがどの局も蓮のスキャンダルを報じる内容で、社はため息をついて近くにあったパイプ椅子に座り、背もたれに体を預けた。
『社さん。これ、何なんですか?』
『さぁ、お前のスキャンダル報道みたいだが?』
『そんなの身に覚えないですよ?』
『しかし、全国レベルで報道されてるなぁ…。』
『番宣か話題作りでしょうか?』
『俺は聞いてないな。主任からも社長からもそんな話は聞いてない。今の仕事内容じゃわざわざこんな話題を作る必要すらないからな。』
『そうですね…。』
『余裕あるみたいだが大丈夫か?』
『えっ?何がですか?』
『キョーコちゃん、大丈夫なのか?』
『…あ』
蓮の体からスゥっと血の気が退いていく。この時間だ。きっと彼女もこの報道をどこかで目にしているだろう。よしんば見てなかったとしても学校なり仕事なり、どこかにいけば大抵噂話として耳にするだろう。彼女はどう思う?昨日から今日に至る出来事は彼女に不安しか与えないだろう。不安ならまだいい、絶望を感じてしまうのではないか?
あの子は自分に自信がない。俺の気持ちを受け取ってはくれたが、ちゃんと信じてくれているのかは解らない。あの子にはまだ話していない事がありすぎる…。
社の目の前で蓮は冷たいブロンズ像のように固まってしまった。