蓮はキョーコの部屋の前に立っていた。階段を上がる前に入れた気合いはここにたどり着くまでに使い果たしてしまって、今はノックを躊躇するという情けない姿を晒している。息をとめ、右手を持ち上げ、軽く手を握り、甲でノックをしようとするのだが、降り下ろした手はドアにかする事なく下へと垂れ下がる。同時に蓮の口からため息が漏れ、項垂れる。そんな動作を何回か繰り返していた。
(おれ、本当にへたればだなぁ)
この情けない状況に自分自信も呆れ、笑いが込み上げてくる。
蓮は目的の動作を果たしてくれない右手をじっと見た。そして、力を入れてしっかりと握る。自分の胸にその拳をあて、めを閉じてもう一度深呼吸。そして、しっかりとめを開けて右手を持ち上げた。拳がドアにあたりかけた時に、今まで閉ざされていた扉が蓮の方に開いてきて、蓮は慌てて一歩退いた。
開いた扉から奏江が出てこようとして、前に立って驚いた表情のまま固まっている蓮を見てあからさまに疎ましいといった顔をした。眉間に皺を寄せ、隙あらば襲いかからんばかりの勢いで蓮を睨み付ける奏江。蓮はその視線の強さにその場で固まってしまった。
『なんですか?』
『あ、いや、あの…。』
『用事がないなら来ないでいただけますか?』
『…京子…さん…は…?』
『あの子なら今は落ち着いてますよ゜あなたがあの子の心に波風立てなければあの子は穏やかでニュートラルなんです。』
『……っ、あぁ…。』
『またあの子に何か波風立てるつもりで上がってきたんですか?』
『そ、そんなっ!』
『ならいいですけど、あの子のことを少しでも心配しているのなら、そっとしてあげていただけませんか?』
奏江の言葉はどこまでも厳しくて固い。蓮は今更ながら自分の失態がそれほど大変な事だったのだと無言でうちひしがれる。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、部屋の奥から遠慮がちに届いたキョーコの声だった。
『もー子さん、どうかしたの?』
その声に奏江も蓮もはっとして我に帰る。奏江は部屋の中を振り返り『何でもないわ。あんたはのんびりしてなさい、モーっ!』と声をかける。
『でも、もー子さん、なんか怒って『怒ってなんかないわよ、もーっ!』…でも…。』
キョーコの声はあからさまにしょんぼりしてしまう。その様子を見て奏江は「しまった」とちょっぴり反省する。
『今はあんたは何にも考えないでゆっくりしてなさい。もう倒れたりしたくなはいでしょ?もーっ!』
キョーコは奏江に心配されている事が嬉しくて奏江に満面の笑みを向ける。
『うん、それはそうなんだけど、誰か来たんでしょ?』
そういうとすっと立ち上がって部屋の入り口の方に歩いてきた。
『おとなしくしてなさい、もーっ!』
キョーコは奏江の制止をニコニコ笑顔で聞き入れずにドアのところまでやって来た。
『京子…さん…』
扉の向こうにキョーコの姿を見つけた蓮は安堵し、ほっと小さく息を吐いた。キョーコは廊下に蓮を見つけて固まってしまった。
『あぁもぉっ!だからあんたは出て来なくていいって言ったのに、もーっ!』
奏江はキョーコを部屋の中に押し込もうとキョーコの肩を軽く掴んでクルッと部屋の中を向かせて背中を押して、自分もそのまま部屋へ入ろうとした。
『ま、待ってっ!』
蓮がなんとか絞り出せたのはこの一言。だが、キョーコの足を止めるには十分だった。奏江も無理にキョーコを押し込もうとはせず、そのあとに続くはずの蓮の言葉を待つ。
『あっ、えっと、あの…』
呼び止めたはいいがうまく言葉が紡げない蓮。そんな蓮の態度に奏江は待ちきれないといった態度でキョーコの肩を再び押そうとする。
『ご、ごめんっ!』
『『えっ?』』
蓮の叫びに近い声にキョーコも奏江も驚いて蓮の方に振り返る。二人の目の前には直立の姿勢から直角に上体を倒して頭を下げている蓮の姿だった。
『ごめん。京子さん、本当にすまない。俺は、俺は…。』
蓮は頭を下げて下を向いたまま必死にいい募る。
『怖いんだ。何もかもが、今の俺を取り巻くもの、人、出来事全部が怖いんだ!』
『つ、るが…さん?』
キョーコは今まで見たことのない蓮の姿と切羽つまった声に驚いて目を見開く。
『俺は、【敦賀蓮】を演じる事で精一杯で、演じれば演じるほど解らなくなって…、こんな鉄人のような男は作り物なんじゃないかって思い始めて、俺自身が実は作り物で、元から俺なんていないんじゃないかとか、このまま【敦賀蓮】に飲み込まれて、俺が消えちゃうんじゃないかって…。凄く怖くて…。』
『敦賀…さん…』
キョーコは蓮の訴えを聞きながら、らしくなく取り乱す蓮をぼんやり見つめる事しか出来ない。
『なのに、君と来たらどこまでも【京子】なんだ。』
『えっ?』
キョーコは蓮の言葉に驚いて思わず声をだしてしまった。
蓮はそれに構う事なく言葉を紡ぐ。
『俺達が社長から貰った設定をなんなく身につけて、君は京子としてそこにいるんだ。資料の中にいる京子がリアルな形で俺の隣にいる。少しでも気を抜けば【敦賀蓮】が剥がれてしまいそうで怯える俺の隣で君は【京子】で、それが自然なんだ…。』
『敦賀…さん?』
キョーコは下を向いたままいい募る蓮に近づく。
奏江はそんなキョーコを反射的に制止しようと思ったが、一瞬で諦め、キョーコに伸ばしかけた手を止めた。何も掴まなかった手をじっと見つめ、強く握る。そして小さくため息を吐いて廊下の二人をおいて階段を降りて行った。