日本人は、祈ることが苦手なのか? 

祈る対象の「物」が必要だろうか?


仏壇があって

神棚があって

お墓があって


遺骨や遺品、墓が無いのなら、

故人をいたみ、癒しが与えていられるように祈ることは難しいのか?

遺骨や遺品が見つかるまで様々犠牲にしても探しつづけたいものだろうか。


私がこのように思うに至ったのは、


硫黄島に残された英霊たちの発掘作業について、

北海道新聞の記者が著作を発行したから

https://news.yahoo.co.jp/articles/b2659bc8ccd85b10b40e6ea448bdb0d6cf27db64


私はこの著作を2回、読んだ。

かわいそうに苦しんでいった私たちの祖先を、

本土に返してあげよう

そうして弔ってあげよう

そのための遺骨収集を取り上げたもの。

「日本に帰りたかった」「家族の元に帰りたかった」そんな、英霊たちの最後の願いを叶えるために。



でも、

この著作からは、その意義が伝わらないばかりか、

著者のどうでもよい苦労エピソードが多く書かれて、

なにしろ、遺骨収集の意義の記載が薄い

その場にあるものは、すべて何かの痕跡で、

誰かが生きた痕跡かもしれない。

でも、無遠慮に掘り上げて、遺骨や遺品とわからなければゴミ同然にように扱われていた。


著者は、

上陸したこと自体に記者として満足を感じ、

著作の中で英霊達のご遺体を「首なし兵士」と表現している。

本を売りたかったのだろうか。

収集に参加している他の人たちも、

どれだけの人が個人の事を考え、遺骨や遺品のお迎えを目的としているのだろう。


私には、よくわからなかった。


私は、遺骨遺品を収集する事を批判しているのではなく、

その手法や、参加する者のその場所や英霊に対する敬意が足りていない気がする事が気がかりだ。


遺骨遺品収集しなければ、英霊は救われないのか。


それでは、広島と長崎の核攻撃、東京大空襲で焼き尽くされた人たちは救われないのか。


今、それらの人々の遺骨が埋まっている地層の上には何がある?


タワマン、ショッピングモール、公共施設、ホテル





硫黄島で、

我々の祖先が苦しみ、のたうちまわり、理不尽な死をとげていたら、この場全てが墓場のようなもの

だから、場所への敬意は欠かせない

どこを踏んでどこを踏んだらダメかわからないのではないか


私は、

こういう場合には、

「発掘物」ではなく、この場所で何があったかを頭の中で静かに想像し、

目をつぶって、頭の中を祈りの対象で満たして、

心の中でささやく

その場であったことを想像すると、恐怖と怒りで胸が張り裂けそうになるが、耐える


そして、こう祈る


どうか今はもう楽にいてくれてますように

どうか苦しんだ人々を一人も見捨てずにお救いくださいますように

あたたかく、清潔な水で満たされた、食料に満たされた、柔らかい光のあたる場所で癒されていますように


主はどうか、苦しい死を遂げた英霊たちをお救いになりますように


私はそのために私自身の罪を告白して

赦されるよう祈ります

硫黄島、広島、長崎、東京などを頭の中で浮かべながら、祈ります。

私が受けた悲しみ、怒り、それらを与えた相手を赦します

そうすることで主との約束を果たしますから、

ですから、

あの人がいま、楽にいてくれてますように

ご加護を受けて、光の差し込む場所で癒しを受けられていますようにという私の祈りを主に届けてください


騙されたと思って、

本当にやってみてください

自分以外の人々を思い心を動かされる

ただ人々が救われることだけを考える

そんな、日常生活では考えられない人間の本質に気づく事ができますよ


そして、

あー、犠牲になった人々の上に自分の人生があって、この場を与えてもらっているのだな。

その有り難さに自分は答えなければならない。

やはり二度と戦争は起こしてはならない。

そう強く感じます。



これは、聖書を参考にした祈りです。

実際の聖書の祈りの方法は、

マタイの福音書がもっともわかりやすいですが、

そんな形式ではなく、

自分が最も心を込めて祈りに集中できるようにすればよいと思っています。


私はキリスト教徒ではありません

祈りは、自分の本質に近づけること、その際に必ず自分以外の人の事も思うこと、これが大切なのです。


それが一人一人ができる、世界平和の第一歩だと思う。


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それより前にできること、あります。