最近、といっても一週間とちょっとくらい
勝手にほぼ日の今日のダーリンを英訳してみてる。
毎日更新されるから、私も毎日遅れないようについていって
少しずつでも、毎日パソコンの前で座って考えてみることで
書く力がちょっと回復してきたかもしれない。
そして意識しないと(忙しいときは特に)、サーッと読み飛ばしていたんだけど
英語に訳すとなると、自分の中で一度落として考えなきゃ出来ない。
糸井重里さん、面白いオリジナルな表現が多いから尚更。
だから今まで以上に文章を楽しむことが出来てて一石二鳥なのです。
誰も見てないブログでひっそりとやっているんだけど、
3週間続けられたら、リンクしちゃおう。
誰か、添削してくれる人いないかなー。
今日は、この前少し書いた、私が内定をもらったところが
ほぼ毎年開催している講演会+公演にいってきました。
予想以上にたくさんの人が来ていて驚いた。
愛されているんだなぁ、地元の人から。
スタッフの人のさりげない工夫とか思いやりが
色んなところにあって、来年からね、わくわくしてきた。
講演会+シンポジウムでは色んな人が震災の日について話していました。
昨日の11月11日で、震災から8ヶ月。
改めて、人はそれぞれ、あの日の思い出があるんだ、それを話したいんだって思った。
昨日地元が実際に被害にあった人が、誰も覚えちゃいないけど今日であの日から8ヶ月って書いてた。
それを見て、なんかよく分からない気持ちになった。
確かにみんながみんな、日付を意識しているわけじゃないかもしれないけど、
大なり小なり 皆その日のその瞬間に感じたことだったり、起こした行動があるわけで。
日本にいなかった私にだって、あの日の思い出はある。
それを話すときの人は、いきいきっていうのは表現がおかしいかもしれないけど
とっても主観的で鮮明で、忘れてなんかいない。
のんきなうちの家族でだって、それぞれがその時どこで何をしてて、
最初に揺れがあった時にどう思ったのか、覚えていて話してくれた。
今日の集まりでも、みんなプレゼンテーションをする前に、もしくは途中に
自分がその時の状況を話す。
それ抜きでは、話せないから。
来賓の人まで、聞かれてないのに話す。w
自己紹が、名前/所属/あの日の私/挨拶の定型文っていう感じで。
うん。
震災の後すぐ、いろんなところでいろんな人の色んな意見を見ていたら、
いつも以上に社会的常識的にに正しくて善い意見、
大きくて悲しくてでも先に向けてポジディブな意見があまりに多くて必要とされてて
いつも以上に社会的に認められない正しくない気持ちだったり意見が殺されている気がして、
もちろんもちろん、その時に一番に大事にされるべきものを考えれば当たり前なのかもしれないけど、
上手い表現がないんだけど、なんだか気持ちが悪くなったのを少し思い出した。
誰も何も否定したくないいんだけど、気持ちの悪い気持ちが自分の中にあったなぁ。
そういえば私の友達は、1人1人が震災について本当にどう思っているのか聞きたくて
あなたが今感じていることを率直に教えてくださいって色んな人にメールしたら
ある人に失礼だ、無神経だって言われたって言ってたなぁ。
なにがあってそう思ったのか、ほとんど使っていないtwitterに3日後くらいに
”かかえくれない悲しみも中くらいの悲しみも見えないくらい小さい悲しみも。 全部等しくきちんと思いやって。 比べて遠慮しないで、精一杯かなしんでいいのに。”って書いたら、
”このツイートわたしのmixiに紹介してもいいですか?読んだとき、涙出るくらいうれしかったです。”
って知らない人に言われてものすごく嬉しかった。
あとこれ、いいなって思った。
『ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。』
話はちょっと戻って、今日の人たちの、自分の経験の話し方がなんだかとてもよかった。
誰か特定の人の話し方がいやだなぁなんて思った記憶は別に特にないんだけど。
今日の人たちは、そんなに大きな範囲じゃないけれど
近くにまず自分たちの守りたいものがあって、それを一番に考えていて。
もし、また、起こってしまったら もっとしっかり守れる体制を作りたいと思っていて
たくさん考えて行動をおこしてる。
他の誰かや他のところのことについて話したり比べたり責めたりもせず、
なんだろうすごく何だろうあっさりとしていて。あっけらかんとしていて。
身の丈にあっているというのはいい表現なのかな。
尽力をつくしてあとは天命にまかせる。っていう潔さというのかな。
本当になんて言ったらいいのか分からないけれど、とってもいいなぁいいなぁって思った。
こうやってつらつらと書いていって
実際に復興に関与することなんてなにも出来てないし、世間で実益になることなんてないし
そんなことしてるなら、ボランティアいけーとか、言われちゃったりして。
無責任なのかもしれないしもしかしたら不謹慎なのかもしれないけど
その時ここにいなかった分、たくさんの人の話を聞きたいし
それを聞いて自分がどう思うのか ただすごく知りたい。
またすっちゃかめっちゃかだけど、
正しいとか間違ってるとかじゃないくて
思ったこと感じたこと、誰かを傷つけないだろうと私が予想する範囲内のものならば
(ある程度の人を不快にさせてしまうのはある程度仕方ないと思う)残らず書いて残しておきたい。
勝手にほぼ日の今日のダーリンを英訳してみてる。
毎日更新されるから、私も毎日遅れないようについていって
少しずつでも、毎日パソコンの前で座って考えてみることで
書く力がちょっと回復してきたかもしれない。
そして意識しないと(忙しいときは特に)、サーッと読み飛ばしていたんだけど
英語に訳すとなると、自分の中で一度落として考えなきゃ出来ない。
糸井重里さん、面白いオリジナルな表現が多いから尚更。
だから今まで以上に文章を楽しむことが出来てて一石二鳥なのです。
誰も見てないブログでひっそりとやっているんだけど、
3週間続けられたら、リンクしちゃおう。
誰か、添削してくれる人いないかなー。
今日は、この前少し書いた、私が内定をもらったところが
ほぼ毎年開催している講演会+公演にいってきました。
予想以上にたくさんの人が来ていて驚いた。
愛されているんだなぁ、地元の人から。
スタッフの人のさりげない工夫とか思いやりが
色んなところにあって、来年からね、わくわくしてきた。
講演会+シンポジウムでは色んな人が震災の日について話していました。
昨日の11月11日で、震災から8ヶ月。
改めて、人はそれぞれ、あの日の思い出があるんだ、それを話したいんだって思った。
昨日地元が実際に被害にあった人が、誰も覚えちゃいないけど今日であの日から8ヶ月って書いてた。
それを見て、なんかよく分からない気持ちになった。
確かにみんながみんな、日付を意識しているわけじゃないかもしれないけど、
大なり小なり 皆その日のその瞬間に感じたことだったり、起こした行動があるわけで。
日本にいなかった私にだって、あの日の思い出はある。
それを話すときの人は、いきいきっていうのは表現がおかしいかもしれないけど
とっても主観的で鮮明で、忘れてなんかいない。
のんきなうちの家族でだって、それぞれがその時どこで何をしてて、
最初に揺れがあった時にどう思ったのか、覚えていて話してくれた。
今日の集まりでも、みんなプレゼンテーションをする前に、もしくは途中に
自分がその時の状況を話す。
それ抜きでは、話せないから。
来賓の人まで、聞かれてないのに話す。w
自己紹が、名前/所属/あの日の私/挨拶の定型文っていう感じで。
うん。
震災の後すぐ、いろんなところでいろんな人の色んな意見を見ていたら、
いつも以上に社会的常識的にに正しくて善い意見、
大きくて悲しくてでも先に向けてポジディブな意見があまりに多くて必要とされてて
いつも以上に社会的に認められない正しくない気持ちだったり意見が殺されている気がして、
もちろんもちろん、その時に一番に大事にされるべきものを考えれば当たり前なのかもしれないけど、
上手い表現がないんだけど、なんだか気持ちが悪くなったのを少し思い出した。
誰も何も否定したくないいんだけど、気持ちの悪い気持ちが自分の中にあったなぁ。
そういえば私の友達は、1人1人が震災について本当にどう思っているのか聞きたくて
あなたが今感じていることを率直に教えてくださいって色んな人にメールしたら
ある人に失礼だ、無神経だって言われたって言ってたなぁ。
なにがあってそう思ったのか、ほとんど使っていないtwitterに3日後くらいに
”かかえくれない悲しみも中くらいの悲しみも見えないくらい小さい悲しみも。 全部等しくきちんと思いやって。 比べて遠慮しないで、精一杯かなしんでいいのに。”って書いたら、
”このツイートわたしのmixiに紹介してもいいですか?読んだとき、涙出るくらいうれしかったです。”
って知らない人に言われてものすごく嬉しかった。
あとこれ、いいなって思った。
『ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。』
話はちょっと戻って、今日の人たちの、自分の経験の話し方がなんだかとてもよかった。
誰か特定の人の話し方がいやだなぁなんて思った記憶は別に特にないんだけど。
今日の人たちは、そんなに大きな範囲じゃないけれど
近くにまず自分たちの守りたいものがあって、それを一番に考えていて。
もし、また、起こってしまったら もっとしっかり守れる体制を作りたいと思っていて
たくさん考えて行動をおこしてる。
他の誰かや他のところのことについて話したり比べたり責めたりもせず、
なんだろうすごく何だろうあっさりとしていて。あっけらかんとしていて。
身の丈にあっているというのはいい表現なのかな。
尽力をつくしてあとは天命にまかせる。っていう潔さというのかな。
本当になんて言ったらいいのか分からないけれど、とってもいいなぁいいなぁって思った。
こうやってつらつらと書いていって
実際に復興に関与することなんてなにも出来てないし、世間で実益になることなんてないし
そんなことしてるなら、ボランティアいけーとか、言われちゃったりして。
無責任なのかもしれないしもしかしたら不謹慎なのかもしれないけど
その時ここにいなかった分、たくさんの人の話を聞きたいし
それを聞いて自分がどう思うのか ただすごく知りたい。
またすっちゃかめっちゃかだけど、
正しいとか間違ってるとかじゃないくて
思ったこと感じたこと、誰かを傷つけないだろうと私が予想する範囲内のものならば
(ある程度の人を不快にさせてしまうのはある程度仕方ないと思う)残らず書いて残しておきたい。