どうもおひさしぶりです。
書きたい言葉がどんどん体に溜まっていくのに、パソコンを修理に出しててなかなか書けなくてもやもやしてましたーーー!ネタ溜まりまくりです。
友達のパソコンを借りているので、一気に今夜出しますー。よかったらお付き合いくださいませ。
近況の前に、タイトルにもある最近考えてた 無自覚な「愛のまちぶせ」について。
ほぼ日に連載されてる山田ズーニーさんのおとなの小論文っていうエッセイがとっても好きなのですが、その中の「余分」のある言葉っていうエントリーがずどんときました。
ーーー
本人は意識していないのだけど、
言葉に「余計な思い」がはりついてしまうことがある。
例えば、「私を認めてくれ」「見返りをくれ」
「私があなたを好きであるように
あなたも私を好いてくれ」
など、エゴとか、執着とか、
受け手にとってあんまりありがたくない思いだ。
人に自然にある思いだから
必ずしも悪いものではないんだけれど、
過度になってしまうと、つもりつもって、
かえって不自然なコミュニケーションになってしまう。
おたがい「無意識」なだけに
なかなか意識的にコントロールできなくて、
言われたほうは、
なんとなく「負担」を感じて苦しみ、
言ったほうは、
自分ではワケがわからぬままに、
「ウザい」「重い」と遠ざけられて苦しむ。
この「余分」と「負担」。
〈中略〉
「余分」のある言葉。
「おはようございます」は
「おはようございます」であって、
それ以下の心のない言葉であってはいけない。
けれども、それ以上の「余分」な想いがはりついても、
受け取るほうには負担である。
心の根に、透明感をもって言葉を発したい。
本文はこちら。 http://www.1101.com/essay/2010-10-06.html
ーーーー
なんだかずっと、自分の話す言葉が嫌いだった。書く言葉に対してはそんなこと思わないんだけど、自分が誰かと話してるときに発する言葉を聞くのがすごくいや。行動もかもしれない。
一人で行動してるときの自分は好きなのに、誰かと関わっているときの自分を客観的にみている自分がどこかにいて、なんだか気持悪いな、いやだなあって思ってたの。(いや、まだ結構思ってる。)なんかどこか濁ってるなあと。んで、なんか重い。軽くない。自分で聞いていると、見ているとなんかいっやーな気持ちになる。胃もたれっぽく。 そんでコミュニケーションがもっと億劫になる。
このエントリーを読んだあと、うわ、これまさに私だ。。とおもった。
いつも言葉、行動に私をわかってくれ、私を好いてくれっていう思いを乗せて発してるんだ。=無自覚な愛のまちぶせをしてるんだなあと。認めてーーー。私はあなたとは違うんですーーー。みたいな気持ちが言葉にべったりくっついていつも発信されてるんだな。怖。
それを一番身近で聞いてる自分自身がいやな思いをするのは当然っちゃ当然だよね。 一体どこに向かっている言葉なんだ?って感じです。
認めてもらいたい気持ちが強いのにはそれなりに自覚があったつもりなんだけど、すごくすごく普通の言葉の裏にもそういう気持ちが詰まってたんだなあってことに気づいてびっくり。
ちょうど昨日友達が急に、私「いい人」って付き合いづらいんだよね。「いいやつ」と付き合いたいって言っていて。 私は最初????ってなって。 ちがいは何?って聞いたら、言葉にウソがあるかないかって聞いてなるほどーーーーーーーー、と。
いい人は確かにいい人だ。相手を思って相槌を考えたり、いっぱい考えて話す。(わかんない。生来いい人はちがうかもしれない。) それを否定する気は全くないです。すごいです。前の日記と少しつながってるかも
でもいいやつは、結構なんでも言っちゃう。悪気もなく。あっけらかんと。「言葉にうそがない」。 確かに。 付き合いやすい。よね。 わかんない、いつもじゃないけど。
いい人、いいやつの捉え方だったりは、まだ上手く消化できてないのだけど、なんとなくわかる気がした。まっすぐな言葉は気持ちいい。疲れない。
その友達がもう一個言ってたのが、アメリカ人は「いいやつ」が多い。
ずかずかとはっきり物事を言うけど、それって最初はなんだお前ーってなるけど気持ちいい。
全体的に軽いけど、心地いい。
ちょっとずれるかもしれないけど、アメリカ人(欧米人って言ったほうがいいのかな?)の話はすごく具体的。んで、わりかし長い気がする。
気持ちとか出来事に対応する部分を全部言葉に置き換えてる気がする。あとは固有名詞をよく使うなあって思った。
そんなことを、直接クラスメートに聞いてみたら、「アメリカ人はずっと話してないと不安なんだよ。いろんな人種の人が一緒に暮らしていて、不安でしょうがないから言葉で埋めてるんだよ。共通な価値観がないから。映画も大きいね。共通の認識、共通の言葉って映画で作られてる部分が大きいかも。だから固有名詞が単語のように使われるんだと思う。」って答えてくれた。
なるほど。
よくよく日本語は曖昧な言葉だって言われるけど、それは単一な日本人だけに使われているから、根っこのとこで共有してる認識を前提としてるから、すきまがあってもまあまあ通じるんだよなあ。 意味を考える余地があるというか。その曖昧さを美しいって思うのかな。でも、誤解も生じやすい。発信する側と受け取る側の認識のずれがないはずがない。でも少ない言葉でなんとなくわかりあって、そういう通じ合ってるって思えることってほんとすごい。まあ、本当の本当にわかりあえてるかはわからないけど。
うーん。ずれてきた気がする。
あともう一個。こないだ中国人の男の子と、なんで英語であまり意志疎通できないインターナショナルスチューデント同士が恋愛に発展するんだろうねー。みたいな話をしてて。
つたない英語だからこそ、言葉もシンプルで本当に伝えたいことだけが存在してなかなかウソがつけないんじゃないから逆にいいんじゃない?すごくピュアな恋愛なんじゃない?っていう風に話が発展してこれまた面白かった。確かにー。
今、まだまだ英語でコミュニケーション苦労することが多いのですが、やっぱり英語で話してる時の方がきっとピュア。伝えることに必死だから。余分な言葉を使わないいい練習をしているのかもしれない。
あとは違う目線で同じことを見る練習にも。やっぱり日本語で話すときとは、使う思考回路が違うからか同じことを話しているのに、全然ちがうアプローチ(もっと直接的)でそれを伝えていたりして自分でたまに、あ、そういう伝え方、表し方もあるんだ。って発見することがよくあります。インプットの時も同じだよね。今更だけど、面白いなあ。
またまたずれてきたぞ。。
でも、今日は珍しく結論があります。
「何かを伝えるときは、出来るだけクリアな言葉に置き換えて。
余計な下心をいれずに、ピュアな気持ちで話す」努力をしましょうってこと。
書くとこんなにも簡単。(行動はまた違うかも。もうちょっと考えよう。)
大事なのはどうやったら出来るのか。よね。
一つ思ったのが、言葉を「手放す」こと。
発する言葉自体には責任をもつけど、相手の反応には責任を持たなくていいや。
なんかこれ前も言ってた気がするけどw
どんな反応が返ってくるなんてわかんないからなあ。
思わぬ言葉が誰かを傷つけることだってあるし、思わぬ言葉が誰かをものすごくハッピーにすることもある。もん。相手に選択権を与えっちゃっていいんじゃないかなーー
もうちょっとぼんぼん結構言っちゃっていいんじゃんない?何にも言わないよりは。って。すごく実感を持って今そう思う。まだ、あんまり出来てないけど;
ヨガの先生の Everyday is Valentin day!っていう口癖が好き。
あとは、自分を通して物事を考えすぎない。相手の話にもっと集中したいなあ。
あと純粋に楽しむ。
なんとか龍之介さんの「考えない練習」っていう本をちょうど日本から送ってもらうところなのです。早く読みたいなあ。
心の検問さんを育てたいなあ。
口の検問じゃなくて、心の検問。 もっと前の場所で、分別してこれ伝えてもいいよって思ったらそっからはもうノーパスでGO!みたいな。
口から出る直前にいろいろ付け加えたりしなくていいように。
うん。そんなところでしょう。
ああ。近況書こうと思ったけど気分がずれたので、また今度~~~。
書きたい言葉がどんどん体に溜まっていくのに、パソコンを修理に出しててなかなか書けなくてもやもやしてましたーーー!ネタ溜まりまくりです。
友達のパソコンを借りているので、一気に今夜出しますー。よかったらお付き合いくださいませ。
近況の前に、タイトルにもある最近考えてた 無自覚な「愛のまちぶせ」について。
ほぼ日に連載されてる山田ズーニーさんのおとなの小論文っていうエッセイがとっても好きなのですが、その中の「余分」のある言葉っていうエントリーがずどんときました。
ーーー
本人は意識していないのだけど、
言葉に「余計な思い」がはりついてしまうことがある。
例えば、「私を認めてくれ」「見返りをくれ」
「私があなたを好きであるように
あなたも私を好いてくれ」
など、エゴとか、執着とか、
受け手にとってあんまりありがたくない思いだ。
人に自然にある思いだから
必ずしも悪いものではないんだけれど、
過度になってしまうと、つもりつもって、
かえって不自然なコミュニケーションになってしまう。
おたがい「無意識」なだけに
なかなか意識的にコントロールできなくて、
言われたほうは、
なんとなく「負担」を感じて苦しみ、
言ったほうは、
自分ではワケがわからぬままに、
「ウザい」「重い」と遠ざけられて苦しむ。
この「余分」と「負担」。
〈中略〉
「余分」のある言葉。
「おはようございます」は
「おはようございます」であって、
それ以下の心のない言葉であってはいけない。
けれども、それ以上の「余分」な想いがはりついても、
受け取るほうには負担である。
心の根に、透明感をもって言葉を発したい。
本文はこちら。 http://www.1101.com/essay/2010-10-06.html
ーーーー
なんだかずっと、自分の話す言葉が嫌いだった。書く言葉に対してはそんなこと思わないんだけど、自分が誰かと話してるときに発する言葉を聞くのがすごくいや。行動もかもしれない。
一人で行動してるときの自分は好きなのに、誰かと関わっているときの自分を客観的にみている自分がどこかにいて、なんだか気持悪いな、いやだなあって思ってたの。(いや、まだ結構思ってる。)なんかどこか濁ってるなあと。んで、なんか重い。軽くない。自分で聞いていると、見ているとなんかいっやーな気持ちになる。胃もたれっぽく。 そんでコミュニケーションがもっと億劫になる。
このエントリーを読んだあと、うわ、これまさに私だ。。とおもった。
いつも言葉、行動に私をわかってくれ、私を好いてくれっていう思いを乗せて発してるんだ。=無自覚な愛のまちぶせをしてるんだなあと。認めてーーー。私はあなたとは違うんですーーー。みたいな気持ちが言葉にべったりくっついていつも発信されてるんだな。怖。
それを一番身近で聞いてる自分自身がいやな思いをするのは当然っちゃ当然だよね。 一体どこに向かっている言葉なんだ?って感じです。
認めてもらいたい気持ちが強いのにはそれなりに自覚があったつもりなんだけど、すごくすごく普通の言葉の裏にもそういう気持ちが詰まってたんだなあってことに気づいてびっくり。
ちょうど昨日友達が急に、私「いい人」って付き合いづらいんだよね。「いいやつ」と付き合いたいって言っていて。 私は最初????ってなって。 ちがいは何?って聞いたら、言葉にウソがあるかないかって聞いてなるほどーーーーーーーー、と。
いい人は確かにいい人だ。相手を思って相槌を考えたり、いっぱい考えて話す。(わかんない。生来いい人はちがうかもしれない。) それを否定する気は全くないです。すごいです。前の日記と少しつながってるかも
でもいいやつは、結構なんでも言っちゃう。悪気もなく。あっけらかんと。「言葉にうそがない」。 確かに。 付き合いやすい。よね。 わかんない、いつもじゃないけど。
いい人、いいやつの捉え方だったりは、まだ上手く消化できてないのだけど、なんとなくわかる気がした。まっすぐな言葉は気持ちいい。疲れない。
その友達がもう一個言ってたのが、アメリカ人は「いいやつ」が多い。
ずかずかとはっきり物事を言うけど、それって最初はなんだお前ーってなるけど気持ちいい。
全体的に軽いけど、心地いい。
ちょっとずれるかもしれないけど、アメリカ人(欧米人って言ったほうがいいのかな?)の話はすごく具体的。んで、わりかし長い気がする。
気持ちとか出来事に対応する部分を全部言葉に置き換えてる気がする。あとは固有名詞をよく使うなあって思った。
そんなことを、直接クラスメートに聞いてみたら、「アメリカ人はずっと話してないと不安なんだよ。いろんな人種の人が一緒に暮らしていて、不安でしょうがないから言葉で埋めてるんだよ。共通な価値観がないから。映画も大きいね。共通の認識、共通の言葉って映画で作られてる部分が大きいかも。だから固有名詞が単語のように使われるんだと思う。」って答えてくれた。
なるほど。
よくよく日本語は曖昧な言葉だって言われるけど、それは単一な日本人だけに使われているから、根っこのとこで共有してる認識を前提としてるから、すきまがあってもまあまあ通じるんだよなあ。 意味を考える余地があるというか。その曖昧さを美しいって思うのかな。でも、誤解も生じやすい。発信する側と受け取る側の認識のずれがないはずがない。でも少ない言葉でなんとなくわかりあって、そういう通じ合ってるって思えることってほんとすごい。まあ、本当の本当にわかりあえてるかはわからないけど。
うーん。ずれてきた気がする。
あともう一個。こないだ中国人の男の子と、なんで英語であまり意志疎通できないインターナショナルスチューデント同士が恋愛に発展するんだろうねー。みたいな話をしてて。
つたない英語だからこそ、言葉もシンプルで本当に伝えたいことだけが存在してなかなかウソがつけないんじゃないから逆にいいんじゃない?すごくピュアな恋愛なんじゃない?っていう風に話が発展してこれまた面白かった。確かにー。
今、まだまだ英語でコミュニケーション苦労することが多いのですが、やっぱり英語で話してる時の方がきっとピュア。伝えることに必死だから。余分な言葉を使わないいい練習をしているのかもしれない。
あとは違う目線で同じことを見る練習にも。やっぱり日本語で話すときとは、使う思考回路が違うからか同じことを話しているのに、全然ちがうアプローチ(もっと直接的)でそれを伝えていたりして自分でたまに、あ、そういう伝え方、表し方もあるんだ。って発見することがよくあります。インプットの時も同じだよね。今更だけど、面白いなあ。
またまたずれてきたぞ。。
でも、今日は珍しく結論があります。
「何かを伝えるときは、出来るだけクリアな言葉に置き換えて。
余計な下心をいれずに、ピュアな気持ちで話す」努力をしましょうってこと。
書くとこんなにも簡単。(行動はまた違うかも。もうちょっと考えよう。)
大事なのはどうやったら出来るのか。よね。
一つ思ったのが、言葉を「手放す」こと。
発する言葉自体には責任をもつけど、相手の反応には責任を持たなくていいや。
なんかこれ前も言ってた気がするけどw
どんな反応が返ってくるなんてわかんないからなあ。
思わぬ言葉が誰かを傷つけることだってあるし、思わぬ言葉が誰かをものすごくハッピーにすることもある。もん。相手に選択権を与えっちゃっていいんじゃないかなーー
もうちょっとぼんぼん結構言っちゃっていいんじゃんない?何にも言わないよりは。って。すごく実感を持って今そう思う。まだ、あんまり出来てないけど;
ヨガの先生の Everyday is Valentin day!っていう口癖が好き。
あとは、自分を通して物事を考えすぎない。相手の話にもっと集中したいなあ。
あと純粋に楽しむ。
なんとか龍之介さんの「考えない練習」っていう本をちょうど日本から送ってもらうところなのです。早く読みたいなあ。
心の検問さんを育てたいなあ。
口の検問じゃなくて、心の検問。 もっと前の場所で、分別してこれ伝えてもいいよって思ったらそっからはもうノーパスでGO!みたいな。
口から出る直前にいろいろ付け加えたりしなくていいように。
うん。そんなところでしょう。
ああ。近況書こうと思ったけど気分がずれたので、また今度~~~。