私達、人間は矛盾を多く抱えています。
神様に自分のチームに宇宙に…多くの事を投げていくにもかかわらず悩み、葛藤します。
それは…自分の力でコントロールできるという動きと今でない何かに救いを求めていく動きが起きています。
外に多くを投げつつ悩み葛藤するという動きは外の動きに期待をなげながら自力でどうにかできるという相反しているようにみえます。
けれど根本は…何かに導いてもらい完璧なよりよい何かへと移行する事を願う動きではないだろうか。
今、この瞬間の私では足り得ない何かがある。
そして…悩み、葛藤するという動きは攻略していこうという動きです。
私達は自己責任の捉え方をすぐ履き違えてしまう。
何かが起きると私が至らないからだ。
アクシデントやトラブルと言われるものの全ての責任を負うかのように深刻にとらえていきます。
うまく処理をしろなんて言われてないんだよね。
自己責任っていうのは…私達が各自の密度でうつしだしている目の前に現れてくる現実そのものです。
目の前に密度の結果の連続がただあるだけ。
怖い目にあうんじゃないか。
何かおきてしまうんじゃないか。
全ては…私達が強く信じきっているそのままが現れてくるだけです。
惨めだ。
悔しい。
恥ずかしい。
何かが湧いたというか湧く前にそうしか見えない密度の現実がただある。
それと戦う必要なんてない。
あなたの解釈がドーム内にでてくるだけだから。
でね、じゃあ完璧ってどこ?
それはうつしだしているドームそのものです。
そして…ドームそのものがあなたでありドーム内全ては実はホームです。
サレンダーする、戦わない。
戦うって…いつかの自分の拒絶との綱引きになる。
そうしんじているんだって。
ただそれだけ。
ドームそのものの動きは全肯定です。
あなたのそのままをただうつしだしていく。
そこに制限も良し悪しも道徳もないの。
そして…それは全体性へと繋がり無条件の愛そのものです。
全肯定、無条件って言葉ではこぼれ落ちてゆく。
すごろくを全てだと思っていた意識から…すごろくをしていたその机そのものから立体的に全ての呼吸そのものとリズムを合わせていく意識へと私達は密度を変えているのです。