今日は、あれから3回目の3月11日ですね。
忘れもしないあの日。
私はあの日、たまたま静岡に出張中でした。
某有名百貨店の催事場で忙しく働いていた時でした。
かなり高い所に居たこともあって、
凄まじい揺れに襲われ
咄嗟に東海沖地震がきたと思ったことを覚えています。
ほどなくして震源地が宮城県だったと知った時のあの感覚。
これまで平和に生きてきた私にとって、
初めて感じた絶望感だったと思います。
私の地元は福島県。
内陸の、宮城県との県境です。
原発がヤバイんだって
という誰かの声が響く中
上司の了承を得て家族に電話をするも、
揺れの直後に母と弟と一瞬話ができただけで後はまったく繋がらず、
父は?妹は?祖父母は?
母だって、今は大丈夫でも家にひとりでどうなるの?
怖くて怖くて仕方ありませんでした。
この日主人が身内の葬儀のあとで仕事を休んでたまたま自宅に居たため、
私に電話をかけ続けてくれて、
東京もかなり揺れたけど
主人も家も愛猫も無事ということを教えてくれ、
私の代わりに実家の家族に電話し続けて安否を確かめてくれたことが不幸中の幸いでした
辛かったのは、震源地から遠い静岡では
まだ被災地の現状が伝わらず、
揺れが収まった後はまるで日常だったことでした。
ホワイトデー直前で、百貨店の閉店までお客様が途切れることなく、
実家の家族のこと
友達のこと
東京で働いている後輩、スタッフたちのこと。
心配で仕方ないのに、なかなか電話もできないし、もちろん帰れない。
目の前の現実と、胸中のギャップに
自分がどこにいるのかわからなくなりそうでした。
もう一つ幸いだったのが、
ちょうど10日~11日に私と入れ替わる予定で静岡に出張に来ていた上司が、
新幹線の不通により一緒に静岡に留まってくれていたことでした。
都内の店舗では、スタッフたちが帰れず店舗に泊まっていたので
一晩中上司とホテルのロビーから順番に各店に電話をして励まし続け、
誰かを励ますことで自分を保っていましたし、
一人じゃなかったことで救われていました。
あの時のことは、本当に鮮明に覚えています。
出張から東京へ戻った時のこと。
仕事でのこと。
友達とのメールのやり取り。
新幹線とバスを乗り継いで実家へ帰った時のこと。
もう、愛しい日常を永遠に失ってしまったんじゃないかと思ったこと。
でも私には、本当にしあわせなことに
その愛しい日常は戻ってきました。
私自身は東北、東京の凄まじい揺れも感じていないし、
家族も友達も親戚も皆無事でした。
それでもあの日のことは、大きな傷になって今でも私の中に残っています。
私なんかでもこうなのに、津波の被害に遭われた方、
大切な人を亡くされた方、
原発で家に帰れなくなった方の
傷の深さはいかばかりでしょうか。
日常を本当に失ってしまった方もたくさんいることを忘れてはいけない。
感謝して、慈しむこと。
そして、感謝して慈しむべき家族や日常が戻ってもなお
やっぱり悲しくて悔しい
福島の現状。
自分のふるさとが、こんなかたちで世界的に有名になるなんて
想像すらしていませんでした。
自分自身こそ東京で暮らしていますが、
妹や弟が近い将来福島で子どもを産み育てていくことを考えると、
福島の未来を思うと、
やりきれない思いです。
私は被災者じゃないけれど、
私の大切な人たちの多くが
あの日から被災者と呼ばれるようになりました。
復興を願うのももちろんですが、
いちばんの願いは
もうあんな悲しいことが起こりませんように。
そして、少しでもはやく
被災地により明るい未来が訪れますように。
悲しみが癒えますように。
どんなに痛くても
あの日の恐怖、絶望、悲しみを忘れず、
プラスのエネルギーに転換して、
できることをし続けていきたいと思います。