夕飯の買い物に出ると

息子が在籍している中学校の

下校時間とよく被ります。



下校してる子達を見ながら



学校に行こうか、行かまいが

それが本人の意思なら

どっちでもいいんだよねって思います。



この世の中は



マジョリティが

正しいような錯覚と




マイノリティは

正しくないような錯覚があり




マジョリティが正解で

その他は不正解である



そんな方程式を

無意識に作り出してしまっているように

私は感じます。





本来は

正解かどうかは、本人が決めるものであるし




本人が納得してればいいはず。




この考えで子育てをしていて

旦那に無責任だと言われたこともありました悲しい



確かに、そう見えてもしかたないことです。



けれど、この考えは

父の考えそのもので

私は、そう教えられてきてるので



ほんとに、それは無責任なのか?

そう疑問があり



主治医に相談したこともありました。



主治医の見解としては



マジョリティの中にいる人達にとって  

マイノリティな存在は危険とみなすんです。

悪気もなく、それは人間の本能だから仕方ない。



あなたや息子さんが

マイノリティなんだと

そして、その排除されうる恐怖は

感じて当たり前であることを受け入れて

同じマイノリティのグループを探しなさい




とアドバイスされていました。




心理学で考えれば

理解できるものではありますがあせる



そんな…と感じながらも



先生が言うように

私や息子にとっては

それが生きやすいんだろうとも思います。




ただ、実際は

マジョリティ、マイノリティだって

妄想といえば妄想。





1つの正解であろう流れに

身を任せてしまうことがいいという

無意識の選択が行われてるだけ。



なぜ、1つの流れに身を任せてしまうのか。



それは恐らく

敗戦国日本の教育からきてるように

私は思います真顔




40代の私。



バブルが起こっていた頃

小学生でしたが



当時の社会は



子どもの私から見ても



勉強、学歴、社会での地位、お金で

幸せが決まる!!



誰もが、そう定義された幸せを

疑わないような時代に見えました。



確か、その頃だったと思うんですが



”親の敷いたレールに乗る"というワードを



テレビなどで耳にしていました。



今となって見れば

あのころの流れは洗脳レベル。




答えは1つで

親の敷いたレールに乗れ。

社会での地位で幸せが決まると




家庭や学校。

それに加えて

メディアでの影響で




そんな思考を徹底されていたんだろうと

思えてなりません。




その定義や流れのなかで

作り出された文化や幸せもたくさんあるので

それも大事な流れ。




そう柔軟に受け入れつつ




それが唯一の解なのではなく


 


その人自身が

その人なりの幸せを作ることが大切。




この原点に戻れさえすれば


 

流されようが

なんでもありなんだと思うんです。




3年前から

私が自分自身を振り返ってきた過程で

取り戻したものは



自分の人生は

自分が死ぬまで、自分のもの。



その一瞬、一瞬を

どう選択するのか。



その選択に

正解、不正解なんてない。



この当たり前が

見失われてしまっていたからこそ




息子の不登校という課題が

目の前に現れたんだと、私は受け取りました。




これは不登校の問題だけではなく

親世代の課題そのものでもあると

私は思いました。




学校に行く。

学校に行かない。




このどちらかを

選択する権利があることを

親も子どもも認識して



ルールだからという

受け身の姿勢を

見直す必要がタイミングなんだと思います。




自分で選択して

自ら行く。



逆もしかりで



自らの意思で

行かないを選択する



選択しつづけることで



子どもたちが

自分の人生を生きることになるのです。




そしてここからが

すごく重要で



自分たちは

与えてもらってきてないであろう



選択の意志、自由を



子どもたちに認めていく作業が



親世代の課題で



それが出来たら



今よりも、もっと

生きやすい世の中になると思います!!!



だからこそ

私は

これからも自分と向き合い続けますニコニコ