10月31日の一読は第6章の続きで、「大人」の項目です。ここでいう「大人」が必ずしも前回の「自由な子ども」と共存できないものだと思うべきではないことが初めの方で指摘されていました(参照135ページ)。ただ、具体的にどのように良い効果をお互いに生み出すのかはいまいちよくわかりませんでした。
というのも「大人」は感情に頼らず、合理的ないしは理性的に判断することに長けていて、分析することには有益かもしれませんが、そこから新たなものを生み出すことにはすぐにはつながらないと思われるからです。その部分が「自由な子ども」の発揮しどころなのかもしれませんが「大人」が働きすぎると、「自由な子ども」も抑圧される危険性の方が高いと考えられます。
今回の箇所の一番最後に書かれているように(参照140ページ)、「大人」の機能はまさにコンピュータのようなもので、現代であれば、その機能を自我状態として持つ意義がどの程度あるのかという問いが立ってくると思います。AIの発達、特に生成AIの進化は目を見張るものがあるので、論理的または合理的な記述はアウトソーシングしていくことが考えられます。そのAIとうまく付き合いながら、創造性をどう高めていけるかを考えていくのが現実的な印象を受けています。