5月27日の一読も前回の続きです。哲学的には深いテーマが論じられていることは伝わってくるのですが、何のためにやっているのかはイマイチ伝わってきません。
永井先生は「無内包の現実の〈私〉は、言葉よりも手前にあるので、そもそも言葉で語られることとそりが合わないのです。」(173ページ)と書いているので、そこはすごく納得がいくのですが、それでも「言葉」を使って、「〈私〉」を説明しようとしていました。
他ではない〈私〉を示すには結局のところ「これ」と指差すしかないというあまりにもシンプルな答えが書かれていて、少々びっくりです。しかしながら、永井先生に言わせれば、それこそが「究極のデカルト的覚醒」(174ページ)らしいです。