二宮尊徳の桜町仕法を深掘りする-その5「桜町仕法の基本原則」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今日は第四章「桜町仕法と報徳思想の成立ー仕法着手の史料論的研究ー」の第二節「計画案伺書の提出」の途中まで読んでの気づきをまとめます。


阿部先生は「荒地起返難村旧復之仕法平均御土台取調之事」という文書において、「知行所年貢収納高の調査結果を受け略記した後に、過去十か年の平均額、米九六二俵二斗五升五合八勺、金一三〇両・永五二六文三分八厘を算定して、それを「天命自然之運数」と呼び、以後十か年間、宇津家年貢収納の上限と定め、もし上回る年貢収納があれば「仕法入用米金」として尊徳の運用に任せ、その替わり領主にこれ以上の負担はかけないとする原則を表明する。」(120ページ)と書いています。その上で、金次郎のこの行動を「高尚な仁道論や天道人道哲学の開陳はいっさい無い」(同上)と評しています。


阿部先生のねらいは桜町仕法着手の前後で金次郎の考えがどう変化していったかということのようですが、たしかに金次郎の仕法は後々、「至誠・勤労・分度・推譲」や「天道・人道」のような哲学が明記されるようになっていきますが、そのことと上記の現実的かつ合理的な判断には矛盾がないと思われます。


金次郎の基本スタンスとして、無駄なことや無理なことはしないということがあって、自然の力を発揮できる範囲で最大限の成果を上げようとすることが挙げられますが、それこそ後に明記される「至誠」そのものです。金次郎の場合、精神論よりも実践にどう活かせるかという観点で言葉を使いこなしているだけだと思うので、阿部先生が注目するような前後の表現内容の変化に意味づけすることはあまり有益なことだとは思えません。