『入門 哲学としての仏教』を深掘りする-その19「自己と自然を一体で深める意義」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今の「学び」を「〇〇のため」で終わらせずに、「〇〇とともに」にしていくために、問題意識を教材化して、日本の教育システムで閉ざされたものを開き続けます。

今日の一日一読は第四章の最後までにしました。今回は書かれている内容そのものが気づきとなることはあまりありませんでした。終始、自然と自己は一体であることをいうにとどまっている印象を受けました。



たしかに西洋思想や哲学が世界的に普及している現代において、仏教的な哲学には一定のインパクトを持っていると思いますが、ただそれを取り上げれば済む話ではないと思います。仏教と西洋との類似性を明らかにするだけで事足りるのかとどうしても思ってしまいます。


この章の中で、竹村先生が西洋のディープエコロジーという概念と仏教を比較していた時に、問いが立ってきました。竹村先生はアルネ・ネスのディープエコロジー思想の根底に、本来の自己の自覚があったことに注目していました。そこだけを読めば、仏教に通じるものがあると言えなくもないのですが、ネスがごく当たり前のように書いている文章に引っかかるフレーズがいくつも出ていることに気づきました。

「生きるのだ、そして生かしてやるのだ(live and let live)」という格率が提示しているのは、生態系全体における階級なき社会、言い換えれば人間についてだけでなく、動植物や景観についても正義を語りうる民主社会である。」(143-144ページ)


自己についてネスが語る時に、「階級」とか「社会」、「正義」、「民主」という概念が使われており、それが人間にとどまらずに、自然にも及んでいることに何ら違和感が出ていないことに、私自身はとても不思議に思いました。第二章でやったような言語の問題が非常に人間中心的だと感じてしまったからです。


さらに驚くのは、竹村先生自身がネスの思想に対して、問題提起する部分が書かれていないことです。入門書だからといえば、それまでですが、一言ぐらい触れてもいいことだと思いました。


せっかく仏教を題材にして、全体像を常に意識しながら個別の問題を深掘りできるようになっているだけに、もったいないと感じています。自分の見たいものしか見ないのであれば、いつまでも我執化を超えることなどできないと思っています。