『中庸』章句からMIKする-その18-2「父母の喪を重んじるだけでいいのか?」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今の「学び」を「〇〇のため」で終わらせずに、「〇〇とともに」にしていくために、問題意識を教材化して、日本の教育システムで閉ざされたものを開き続けます。


今日の一日一読は第18章の続きでした。
武王末(お)いて命を受く。周公、文武の徳を成し、大王王季(おうき)を追王(ついおう)し、上(かみ)先公(せんこう)を祀るに天子の礼をもってす。この礼や諸侯大夫(たいふ)及び士庶人(ししょじん)に達す。父大夫たり子士たれば、葬るに大夫をもってし、祭るに士をもってす。父士たり子大夫たれば、葬るに士をもってし、祭るに大夫をもってす。期の喪は大夫に達す。三年の喪は天子に達す。父母の喪は貴賎なく一なり。」

今回は両親が亡くなる時にどうするべきかということが書かれていました。儒教では、先祖を強く敬う傾向があるので、喪に服する期間を定めたりしています。ここで書かれているように3年も喪に服す期間があるようです。それだけ亡くなった人への孝を意識しているのだと思います。孝のあり方として、喪に服す期間を長くとるというのは、想いを表していると言えますが、ただ喪に服すだけで孝を実践したと言っていいのかは疑問が残ります。

ここで想定されていないのが、生前で果たせる孝についてです。死んだ後に、どれだけ敬ったとしても、正直に言えば何かが変わるわけではありません。その点を強調したのが二宮尊徳です。(参照:『二宮翁夜話』から問題意識を教材化するーその74「父の道と孝」)

生前が善である両親に対して孝をなすのであれば、死後でも問題ないかもしれませんが、もし不善な両親がいたならば、死後よりも生前のうちに善に変える努力をするのが孝だと尊徳は言っています。喪に服すという行為は美談に見えるかもしれませんが、二宮尊徳からすると、それだけすれば良いのかということに気づかされます。